左・常滑焼陶祖と呼ばれる鯉江方寿像 右・昭和30年ころの常滑 煙が白いのと黒いのとあるのには理由があります。「焚盛の黒い煙、白い煙は仕上げの食塩焚き」とあります。食塩焚きは「素焼きの表情を生かしつつも、焼き物の耐性を高める」という効果から、食塩を釉薬として使って焼くことをいうようです。
明治時代になって株仲間のような規制がなくなると新規に陶器生産に参入する家が増えていく。そして、明治の常滑では近代土管という新たな主力製品があり、その生産は従来の窯屋だけでは供給しきれないほど大量の需要があった。
土管は英語の「EARTHENWARE PIPE」の訳語とされる。常滑では江戸末期の赤物に土樋があり、文久年間に、鯉江方寿は美濃・高須侯の江戸屋敷で上水道用として用いる真焼土樋を作って納めたという記録がある。しかし、近代土管の生産は土樋とは異なる規格化された製品で、明治5年、横浜の新埋立地の下水工事に伴う注文が鯉江方寿のもとにもたらされたことに始まる。その設計はお雇い外国人のリチャード・ブラントンであった。はじめ瓦の材質で作られた土管は強度に難があるということで、常滑の真焼甕のように作ることを求められた。この注文は従来の常滑焼の技術だけでは充分に対応できず、鯉江家に出入りしていた大工が発案した木型を用いて作る方法でブラントンの求めた規格通りの製品を納めることができたとされる。その後、鉄道網が整備されると灌漑用水路が線路で分断されるため暗渠の水路を強固な素材で通す必要があり、分厚くて硬く焼き締まった特厚の土管が大量に求められた。また、都市での疫病が大きな問題となるに従い上下水道の分離が求められ、土管の需要は増大する一方であった。こうした状況に鯉江家だけでは生産が追いつかず、鯉江家はその技術を解放して常滑をあげて土管生産に対応するようになっていく。
また鯉江方寿は、明治11年に清朝末期の文人で宜興窯の茶器製法を知っていた金士恒という人物を中国から招聘し、常滑の陶工に、その技法を伝習させた。明治期の常滑の煎茶器生産は、多くの名工によって担われていたが、産業として量産されるような段階には至っていない。それは、大正・昭和戦前期においても同様で植木鉢や火鉢の方が主要な製品であった。
余談ですが、貴家の急須の口にビニールが付いていませんか。これは輸送中の破損を防ぐためのもので、そのまま使用していると雑菌が付きやすくなるんだそうですから除去したほうがいいようです。
また常滑はタイルを中心とする建築陶器の生産も盛んです。タイルは明治末年ころから開始されるが、大正期、フランク・ロイド・ライトの設計になる帝国ホテルに採用されたスクラッチタイルやテラコッタなどを常滑で生産して以降、急速にその生産量が増加していく。帝国ホテルの開館の祝いが催されていた大正12年9月1日に関東大震災が発生した。それまでの近代建築の多くが煉瓦積みであったのに対し、帝国ホテルはコンクリートを用いており、震災の影響がそれほど大きくなかった。そして、その後の鉄筋コンクリート建築が普及するとともに建築陶器の需要が急速に増大していくことになる。 (参考・「二上次郎の世界」)
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