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Channel: 勢蔵の世界
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殉死

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 「殉死」
 戦国時代、主君が討死したり、切腹した場合、家来達が追腹を切ることは武士の美徳としてよくあったことですが、主君が病死等の場合に、追腹の習慣はなかったようです。江戸時代に入り戦死することがなくなると、病死の場合でも近習等ごく身近な家臣が追腹をするようになり大名家では数を競うようになった。殉死者が忠臣と称えられ、遺族に加増などの褒美が与えられるようになると、次第に増え、遂には、近習(とくに主君の衆道を務めた者)、重臣で殉死を願わないものは不忠者、臆病者のそしりを受けるようになった。

 1651年三代・家光死去の折、老中の堀田正盛と阿部重次、側用人・内田正信が殉死したのに、松平伊豆守信綱は殉死しなかった。知恵伊豆(知恵出づとかけた)と呼ばれ、家光の小姓から老中になった切れ者である。「仕置きだてせむとも御代はまつだいら あとにゐずとも 死出の供せよ」といった落首で、世間からは批評を浴びた。
 藤堂高虎は「わしが死んだときに、殉死する者は姓名を書いてこの投書函に投書せよ」と触れを出し投函した家来は73名に達した。高虎はこの函を幕府に持ち込み、「この者達は、わが家の宝でござります。この者達が殉死すれば藤堂家は先鋒の御役目を果たすことが出来ません。それゆえ幕命を以って彼等の殉死を禁止してくだされ」と申し出たため、藤堂家では高虎の死に際して殉死した家臣が一人も出なかったという。遂に1663年、4代・家綱によって殉死の禁が伝達された。
 それまでの殉死は許可制で、つまり死期が近付いた主君に願い出るのである、許可なく追腹を切った者も、結果としては武家社会の誉れとして同格に扱われた。この「制度」と「生き方」が組み合っておこす矛盾や溝を原因に、さまざまな悲劇がおこる。鴎外はそこに着目して『阿部一族』を書いた。

 熊本城主・細川忠利の死期が迫り19人が殉死を願い出たが、阿部弥一右衛門だけが許されなかった。「(息子の)光尚にどうか奉公してくれ」と言うのみである。寛永十八年(1641)忠利が病死すると18人は追腹を切った。弥一右衛門へは「おめおめと生きながらえている」、「命を惜しんでいる」という評が立ち、彼は遅れて追腹を遂げた。しかし、阿部家に対する世評は厳しく、冷酷であった。憤激した長男・権兵衛は、先代の一周忌に、自身の髻(もととり)を押し切って先代の仏前に供えた。
 「父は乱心したのではない、このままでは阿部の面目が立たない、もはや武士を捨てるつもりだ」と言った。権兵衛は死罪の御沙汰で切腹どころか縛り首になった。
 阿部一族は、老人や子供、女達を自害させ、屈強の武士たちばかりが次男の弥五兵衛を中心に 屋敷に立て籠もり、討手と凄まじい戦闘となり、全員が討死または自刃した。これは小説であっても史実に基づく。

 『阿部一族』が発表されたのは、明治天皇が崩御されて乃木夫妻が殉死した明治45年9月の翌年である。殉死した翌月に発表した『興津弥五右衛門の遺書』といい、あきらかに乃木将軍の殉死の影響を受けていますね。彼にとっては衝撃と言っていいと思います。すでに鴎外は晩年です。意地、面目、矜持といった武士の生き様を、史実を通して少しでも多く紹介したいと願っていたに違いありません。
 史実物の鴎外の作品は、このあとにも『大塩平八郎』『堺事件』『栗山大膳』『高瀬舟』『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』とすばらしい作品を書き継いでいます。
 
殉死』という司馬遼太郎の作品があります。彼は乃木大将を明治国家の精神的美学、士道としての感動としては書いていませんね。乃木さんを神格化していびつな形で成長して日本を破滅させる軍人達を、痛烈に批判する書だと思います。彼は乃木将軍の殉死を、冷ややかな目で、ただの自己満足と捉えています。無能でストイックな乃木さんを昭和の軍人とダブらせて眺めている、と感じました。
鴎外は乃木さんを、「最後の武士」と捉えたのだと思います。以後、武士の意地、面子をテーマにした作品ばかりになるからです。
 

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