「石川丈山」(1583~1672)
江戸初期における漢詩の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた。
「富士山」
仙客来遊雲外巓 仙客来り遊ぶ 雲外の巓
神龍棲老洞中淵 神龍棲み老ゆ 洞中の淵
雪如紈素煙如柄 雪は紈素の如く 煙は柄の如し
白扇倒懸東海天 白扇倒に懸る東海天
石川丈山の代表的な七言絶句「富士山」である。詩吟を始めようとする人がはじめて接するのが、この詩だそうです。
石川丈山は三河・和泉郷(安城市和泉町)出身。松平家に仕える譜代武士の家に生まれる。
三河・石川氏は代々松平氏の重鎮ともいうべき家柄で、石川数正は西三河の旗頭として家康壮年期時代に仕えて活躍した。東三河の旗頭であった酒井忠次と合わせ、松平家臣団の双璧であった。しかし、丈山の石川氏は本流から遠く離れた分家の分家といったところのようです。和泉の石川家は家禄500石の旗本に過ぎなかった。
江戸初期における漢詩の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた。
「富士山」
仙客来遊雲外巓 仙客来り遊ぶ 雲外の巓
神龍棲老洞中淵 神龍棲み老ゆ 洞中の淵
雪如紈素煙如柄 雪は紈素の如く 煙は柄の如し
白扇倒懸東海天 白扇倒に懸る東海天
石川丈山の代表的な七言絶句「富士山」である。詩吟を始めようとする人がはじめて接するのが、この詩だそうです。
石川丈山は三河・和泉郷(安城市和泉町)出身。松平家に仕える譜代武士の家に生まれる。
三河・石川氏は代々松平氏の重鎮ともいうべき家柄で、石川数正は西三河の旗頭として家康壮年期時代に仕えて活躍した。東三河の旗頭であった酒井忠次と合わせ、松平家臣団の双璧であった。しかし、丈山の石川氏は本流から遠く離れた分家の分家といったところのようです。和泉の石川家は家禄500石の旗本に過ぎなかった。
どうでもいいことなんですが、我家の本官地(現籍地)は、和泉郷の隣である高棚郷で、代々庄屋を務めた家柄であったと聞いている。隣郷の同姓であるからして、和泉石川氏との交流・婚姻によって、あるいは血の流れをいただいているかもしれない、と勝手に思っている。今更調べるすべはない。まあ仮に丈山の血を引いているからといっても、どうということはないのですが。
余談ですが、石川数正は、内政・外交に辣腕を振るい家康に大きく貢献するが、小牧長久手の役後、秀吉のもとに出奔しています。秀吉との外交交渉を行っているうちに、その大きさを知り、徳川家の生き残りのためにも家康に秀吉への臣従を説くが、家中での反発を招き立場を失ったためと思われる。
大坂夏の陣に参加した丈山は、軍令に違反して(先駆けした)咎めを受けて蟄居した。その後剃髪して京・妙心寺に入った。
1617年(元和3年)頃、知人・林羅山の勧めによって藤原惺窩の門人となり儒学を学んだ。文武にすぐれると評判になった丈山には各所から仕官の誘いが多かったものの、仕官するつもりはなかった。しかし病気がちな母を養うために安芸の浅野家に13年ほど仕えた。母が亡くなると引退を願い出た。許されなかったが強引に退去した。
洛北の一乗寺村(比叡山西麓)に、「凸凹窼」(おうとつか)を建てて終の棲家と定めた。人が「詩仙堂」と呼び出したのは、中国歴代の詩人を36人選んで三十六詩仙とし、狩野探幽に肖像を描かせて堂内2階の四方の小壁に9面ずつ掲げたからである。凸凹は人生そのもの、窼はすべてのものが集うところの意で、身分格式を問わず集まり来たれとの思いを込めていた。事実いかなる人も入学を拒まなかった。月謝の決まりもなく、「払える者は払えばよし、払えぬ者は払わずともよし」 自由奔放、あるがままに任せた。
煎茶に親しんだと伝えられると共に、作庭に長じたとも言われ、東本願寺只穀邸(渉成園)の庭園は石川丈山の手になるものと伝えられている。
清貧を旨として、学問に没頭し悠々自適、30数年を過ごして前稿の北斎と同じく90歳で死去した。何度も詩仙堂を訪ねた山本有三氏は、「一生独身で終えた丈山には恋も色気もなく、これでは小説にならぬ」と語ったという。彼の座右の銘がある。
余談ですが、石川数正は、内政・外交に辣腕を振るい家康に大きく貢献するが、小牧長久手の役後、秀吉のもとに出奔しています。秀吉との外交交渉を行っているうちに、その大きさを知り、徳川家の生き残りのためにも家康に秀吉への臣従を説くが、家中での反発を招き立場を失ったためと思われる。
大坂夏の陣に参加した丈山は、軍令に違反して(先駆けした)咎めを受けて蟄居した。その後剃髪して京・妙心寺に入った。
1617年(元和3年)頃、知人・林羅山の勧めによって藤原惺窩の門人となり儒学を学んだ。文武にすぐれると評判になった丈山には各所から仕官の誘いが多かったものの、仕官するつもりはなかった。しかし病気がちな母を養うために安芸の浅野家に13年ほど仕えた。母が亡くなると引退を願い出た。許されなかったが強引に退去した。
洛北の一乗寺村(比叡山西麓)に、「凸凹窼」(おうとつか)を建てて終の棲家と定めた。人が「詩仙堂」と呼び出したのは、中国歴代の詩人を36人選んで三十六詩仙とし、狩野探幽に肖像を描かせて堂内2階の四方の小壁に9面ずつ掲げたからである。凸凹は人生そのもの、窼はすべてのものが集うところの意で、身分格式を問わず集まり来たれとの思いを込めていた。事実いかなる人も入学を拒まなかった。月謝の決まりもなく、「払える者は払えばよし、払えぬ者は払わずともよし」 自由奔放、あるがままに任せた。
煎茶に親しんだと伝えられると共に、作庭に長じたとも言われ、東本願寺只穀邸(渉成園)の庭園は石川丈山の手になるものと伝えられている。
清貧を旨として、学問に没頭し悠々自適、30数年を過ごして前稿の北斎と同じく90歳で死去した。何度も詩仙堂を訪ねた山本有三氏は、「一生独身で終えた丈山には恋も色気もなく、これでは小説にならぬ」と語ったという。彼の座右の銘がある。
「我ハ唯足リルヲ知レリ」