まことに勝手ながら、今年最後の投稿となります。 土俵の鬼と呼ばれた二子山勝治氏(初代若乃花)の本の中に、面白い記述があったので紹介します。表題は適当につけました。昭和24年の十両時代、夏の旭川の巡業でのことであった。以下要約します。
その日の興行を終えて、付け人の若い者を引き連れて小料理屋へ繰り出した。「さあ飲め、さあ食え、どんどん行け」と、どんちゃん騒ぎをした。勘定が心配になってきて、酔っ払っていたんだろうな、女中さんに「駅前の旅館に横綱の東富士関が泊まっているから5千円借りて来てくれ」と頼んだ。稽古の時にいつも目をかけてもらっていたので、酒の勢いで甘えとなって出てしまった。
次の日が大変だった。木戸に呼び出された。木戸というのは執行部のことです。木戸に出向くと、いるいる東富士関(40代横綱) 照国(38代横綱) 羽黒山(36代横綱) 汐ノ海らの大関陣や親方衆、十数人が待っていた。酔ったことや借金したことが問題ではなく、十両の分際で礼儀に外れたことが問題とされたのである。
女中さんが旅館に走ると東富士関は、大関の汐ノ海関達と麻雀をしていた。一番腹を立てたのは横綱と親しかった汐ノ海関で、最後まで強硬に私をクビにしろといい続けた。
「こんな奴は断じて角界に置いておけない」と譲らなかった。
「まあそう言うな、若い時分は過ちの一度や二度ある」という羽黒山関の鶴の一声で首がつながった。
それからは、いっそう稽古に励みましたね。
「あの汐ノ海関を土俵で叩きのめしてやる」と。
相手は私より十歳も年上。ぼやぼやしていると引退されてしまう。出世したいというより、大関と早く当たりたいがため、がむしゃらに稽古しました。汐ノ海関とは4回対戦して全部勝ちました。狭量な奴だと笑われそうだが、結果的に横綱にまで出世出来たのですから汐ノ海関には感謝しなくてはいけません。
数十年して尾車親方(元琴ヶ濱・二子山さんと仲が良かった)に大関会(元大関で組織されている会)で出来山親方(汐ノ海関)が話しかけてきたという。
「ずいぶん昔のことだけど、二子山さんはまだあの時の一件を根に持っているのかなあ」
彼もずっと気にしていたらしい。それで尾車に一席設けてもらって、三人で酒を飲んだんです。まあ昔のことだし、一緒に協会のために尽くしましょうってね。私も木戸に力士を呼ぶ側になっていたんで、考えようによって汐ノ海関に、叱り方の加減を教わったといっても過言ではないですね。
若乃花は人の数倍稽古を重ね、「土俵の鬼」といった異名で呼ばれた。そのエネルギーの根源なるものがこのエピソードである。名ある人が自叙伝で、「道を究める」というようなことを述べることは多いが、とってつけたものであることが多い。しかしこの話は何とも人間臭くていい。
私も経験がある。先輩から理不尽な暴力を受けて、「あいつ稽古で叩きつけてやる」と、闘志を燃やすエネルギーになったものである。貴ノ岩が付人を殴って引退することになった。古来、殴られて稽古に励んで出世した者も多いことであろう。角界は仲良しクラブと違うのである。
私が24~5歳の頃であった。豊田市に大相撲巡業が来たことがあった。トヨタ自動車相撲部の友人から誘われて出向いた。巡業では地元のアマ力士に稽古をつけてくれるのである。土俵下で、厳しい目を向けて指導していたのが二子山親方であった。私が幕下相手に4人勝ち抜くと
「しょっぱい相撲取りゃがって」 と相撲取り達に対して怒りをあらわにしていた。 「見たことがある。こいつは日大の奴だ、××が行け」と幕下上位の者を指定した。私を覚えていただけでも、とても嬉しかった。何しろ私にとって相撲の神様のような存在の人なのである。その後に高見山関に胸を借りることになり、あまりの巨体に辟易した。