「ふぐは御法度」
先日、カナダ人が、ふぐを食す日本人はクレィジーだとTVで語っていた。カナダでは法律でふぐを食べることが禁止されているという。
人間国宝・坂東三津五郎(8代目)が京都の料理屋で食べたふぐの中毒で急死したのは有名な話(昭和50年1月)であるが、相撲取りでふぐで亡くなった人がいる。
人間国宝・坂東三津五郎(8代目)が京都の料理屋で食べたふぐの中毒で急死したのは有名な話(昭和50年1月)であるが、相撲取りでふぐで亡くなった人がいる。
大正15年師走、出羽海一門が福岡県・戸畑町(北九州市戸畑区)での興行でのことである。蒲瀬という退役陸軍少佐は福柳(福岡県出身)の熱心な地元後援者の一人で、関脇・福柳の大好物がふぐであるのを知っていて三匹持って訪れた。福柳は、同期生の行司・式守義(当時十両格)と蒲瀬とふぐを食した。同期生というのは、初土俵が同じことで年齢を超えた親和感があるという。義は8歳年下であったが福柳を兄と慕っていたという。
ちゃんこを食べ終わると、蒲瀬は相撲を見るために桟敷へ行ったが、気分が悪くなり自宅へ戻った。義は土俵に上がり裁いているうちに舌がもつれ腰が抜けて立っていられなくなった。支度部屋に担ぎ込まれると福柳は吐いている。そこへ蒲瀬の娘さんが駆け込んできて
「関取は大丈夫でしょうか、ただいま、父は息をひきとりました」
大騒ぎとなり医者が駆けつけたが、結局、福柳は亡くなり、義は一命をとりとめた。義はまもなく式守伊三郎と改名した。「伊三郎」は、福柳の本名である。彼は生まれた二人の娘にも「福子」、「柳子」と命名した。晩年は大鵬・柏戸時代を裁いた24代・木村庄之助(昭和38年1月)となった。総髪で由井正雪のように肩まで髪を垂らし、「山伏庄之助」と呼ばれた。
余談ですが、柳子は17歳のときに、小平事件の犠牲者になっています。
(「小平事件」とは、戦争末期から終戦直後の東京において、言葉巧みに若い女性に食糧の提供や就職口の斡旋を持ちかけ、山林に誘い出したうえで強姦して殺害するという手口で7人が犠牲になった小平義雄による連続殺人事件)
この福柳と庄之助のふぐ騒動話を、落語家の橘家円太郎(7代)が噺にした。円太郎は落語家の中では指折りの好角家だったそうです。噺は関脇・福柳と庄之助の友情を盛り上げたあと、行司だけに「残った、残った」というオチになっていたという。
福柳の後、昭和8年に沖ッ海という関取が、山口県・萩の巡業先でふぐを食して亡くなっている。以来、「ふぐは御法度」ということになったが、こっそりチャンコにする相撲部屋は後を絶たなかったという。
1963年11月、福岡市の佐渡ヶ嶽部屋の宿舎にて、夜のちゃんことしてふぐを食べたところ、三段目2人、序二段3人、番付外1人に中毒症状が発生して6人全員が救急搬送され、三段目の佐渡ノ花と、序二段の斎藤山が死亡した。残る4人は生還した。6人は、ちゃんこ番として他の関取がフグ鍋を食べ終わった後に、当時は食用を禁止されていなかったフグの肝を追加して食べたんだそうです。そういえば三津五郎も肝を4匹分食したという。
私もずいぶんとちゃんこを食したが、ちゃんこ鍋の魚は「ふぐ」と「くえ」が最高である。 参考・小島貞二著『相撲史うらおもて』
私もずいぶんとちゃんこを食したが、ちゃんこ鍋の魚は「ふぐ」と「くえ」が最高である。 参考・小島貞二著『相撲史うらおもて』