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今年5月1日に皇太子殿下が新天皇に即位し、新元号が施行されます。
「平成」に代わる新しい元号は4月1日に事前公表されるという。飛鳥時代の「大化」に始まり、日本の歴史は247の元号と共に歩んできた。
内閣内政審議室は昭和天皇崩御の日(昭和64年1月7日)の早朝、十ほどの候補から最終的に「平成」「修文」「正化」の三案に絞り、その日の午後、「元号に関する懇談会」(8人の有識者で構成)と衆参両院正副議長に3つの候補を示し、意見を求めた。この時、当時の内閣内政審議室長であった的場順三が、とっさに、明治以降の元号のアルファベット頭文字を順に並べ、「MTSの後はHが据わりが良いでしょう」と言った。その後に開かれた全閣僚会議でも「平成」で意見が一致し、元号を正式に決定。14時36分、小渕恵三内閣官房長官が記者会見で発表した。
「平成」の名前の由来は、『史記』五帝本紀の「内平外成(内平かに外成る)」、『書経(偽古文尚書)』大禹謨の「地平天成(地平かに天成る)」からで「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味なんだそうです。
慶應4年9月7日の夜、前越前藩主・松平慶永(よしなが・春嶽)が考案したいくつかの元号案をくじにして、天皇自らが賢所(かしこどころ)で抽籤、その結果「明治」を引き当てたという。かの明治天皇が「くじ引き」によって「明治」を引き当てられまして、それがそのまま、新元号に決まった…ということなんです!この話、明治時代を生きていた人たちにとっては常識だったそうですが、今や、ほとんど知られていません。
朝日新聞大阪通信部員・緒方武虎は、入社1年にならない新米記者だったが、枢密顧問官・三浦梧楼の家に明治に代わる元号を聞き出せと部長に命じられた。彼は三浦に可愛がってもらっていた。「いやだ」と言い張ったが、部長が自動車を手配してくれた。明治42年の東京全市の自動車数は38台だったというから大変な代物だった。初めて自動車に乗せられて三浦顧問官の家に行くと「大正」に決まったと教えてくれて、大スクープになった。
大正から昭和に移るときには、激しい報道合戦があった。東京日日が未明に「元号は光文」という号外を出し、報知、都もこれに続いた。朝になって時事は「昭和」の号外を出した。『毎日新聞百年史』によると、新元号は「光文」になるはずだったが、その号外が出たために急いで「昭和」に切り替えたという説は有力と思われるとある。もし東日の号外がなければ、私を含めて多くの年配者は光文生まれになるはずだった。