左・岩淵一里塚(静岡県富士川市) 右・錦田一里塚・東側(静岡県三島市)
どちらも旧東海道の両側に一対で現存し、榎の大木が両側に残る。東海道の一里塚の多くは明治以降、敷地の民間への払い下げや道路拡張により取り払われたりして、残っていても片側だけであったり、枯れたために松の木になったりしている。
「一里塚」
どちらも旧東海道の両側に一対で現存し、榎の大木が両側に残る。東海道の一里塚の多くは明治以降、敷地の民間への払い下げや道路拡張により取り払われたりして、残っていても片側だけであったり、枯れたために松の木になったりしている。
「一里塚」
正月を迎えますと、「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」(一休禅師)
の句を思うのです。若い頃はただニヤリとするものだけであったが、年を重ねてくると何とも実感を伴う句となった。
ある年の正月、一休禅師は髑髏をかざしながら、「めでたいな、めでたいな」と言って歩いていた。商家の主人が出てきて、正月にふさわしいめでたい書を書いてくれと頼んだとき、禅師が書いたのがこの句だったという。めでたいと浮かれているときこそ、人間はいつかは死ぬということをしっかり意識して、感謝してお正月を祝いなさい、ということなのでしょう。
昔は、年齢を「数え年」で言っていた。生まれたら一歳なんです。後は正月を迎えれば一歳加算する。だから大晦日に産まれた赤ん坊は、一夜明けたら「二歳」になってしまうわけなのです。
ある年の正月、一休禅師は髑髏をかざしながら、「めでたいな、めでたいな」と言って歩いていた。商家の主人が出てきて、正月にふさわしいめでたい書を書いてくれと頼んだとき、禅師が書いたのがこの句だったという。めでたいと浮かれているときこそ、人間はいつかは死ぬということをしっかり意識して、感謝してお正月を祝いなさい、ということなのでしょう。
昔は、年齢を「数え年」で言っていた。生まれたら一歳なんです。後は正月を迎えれば一歳加算する。だから大晦日に産まれた赤ん坊は、一夜明けたら「二歳」になってしまうわけなのです。
「めでたさも 中ぐらいなり おらが春」 という川柳があります。正月はおめでたいが、年をとってしまうので、うれしさも半分だという意味なんでしょう。正月を迎えるという事に、誕生日的な要素が含まれていた時代では、この一休さんの名句(?)は、さらに人々の心に滲みたことでしょう。
一休禅師は室町時代の人である。すでに当時、「一里塚」なるものが街道筋に存在していたことが窺える。一里塚は平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。信長や秀吉も整備したと伝わるが、慶長9年(1604)の正月、徳川秀忠が、日本橋を起点として、全国の街道に、一里塚を設置することを、(金山奉行の)大久保長安に命じた。行程の目安と木陰による休息の場となるようにと共に、「日本の中心は江戸なんだぞ」ということを知らしめるものであった。一里塚の大きさは五間(約9m)四方、高さ一丈(約1.7m)に土を盛り上げた。街道の両側に対で設置された。上の画像はどちらも東海道に一対で残っている珍しい一里塚である。
長安は秀忠に「塚にはどんな木を植えましょうか?」と尋ねたところ、秀忠は「異な木を植えよ」と答えたという。街道筋には松が多く植えられていたからである。だから、松とは違った木を植えよと言ったわけだが、長安は「イノキ」を「エノキ」と聞いてしまった。かくて一里塚には榎が植えられるようになったという。何とも落語的なエピソードであるが、真実なのか、つくられた話なのかは定かではない。
一休禅師は室町時代の人である。すでに当時、「一里塚」なるものが街道筋に存在していたことが窺える。一里塚は平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。信長や秀吉も整備したと伝わるが、慶長9年(1604)の正月、徳川秀忠が、日本橋を起点として、全国の街道に、一里塚を設置することを、(金山奉行の)大久保長安に命じた。行程の目安と木陰による休息の場となるようにと共に、「日本の中心は江戸なんだぞ」ということを知らしめるものであった。一里塚の大きさは五間(約9m)四方、高さ一丈(約1.7m)に土を盛り上げた。街道の両側に対で設置された。上の画像はどちらも東海道に一対で残っている珍しい一里塚である。
長安は秀忠に「塚にはどんな木を植えましょうか?」と尋ねたところ、秀忠は「異な木を植えよ」と答えたという。街道筋には松が多く植えられていたからである。だから、松とは違った木を植えよと言ったわけだが、長安は「イノキ」を「エノキ」と聞いてしまった。かくて一里塚には榎が植えられるようになったという。何とも落語的なエピソードであるが、真実なのか、つくられた話なのかは定かではない。
19世紀末の天保年間の調査による「宿村大概帳」によると、一里塚には榎が一番多く、過半数を占める。次に松が4分の1強、ついで杉が1割弱で他の栗、桜、檜、樫は数本程度しか植えられていないという。