「相撲取りと、め組の喧嘩」
江戸文化が爛熟に達した文化・文政期に、『与力、相撲に火消しの頭』という言葉があった。つまりこの3者は『江戸の三男』とされ、「粋」な男の代表として挙げられていた。
収入に余裕があった奉行所の与力は、服装にもうるさく、また所持していた刀剣や印籠、履いていた雪駄などにも細心の注意を払い、洗練されていた。その着こなしは渋くさっぱりと洒落ていて、江戸市中ではその姿は誰からも一目で判るものだったという。相撲取りも金に不自由せず気っぶが良く、豪快に遊んだ。さっぱりとした性格で男気があり、身なりが洗練されていて微かな色気がある、即ちまさしく江戸の「粋」な男の条件にマッチしていた。鳶のかしらも配下を危険な火災現場で防火活動に従事させるのだから、極めて大きな人望と頭抜けた統率力が必要とされた。普段は、自らの担当町内における喧嘩や揉め事などの仲裁や解決にあたり、腕っぷしの強さは当然として、義侠心や人間としての貫録といったものも身に着けている人物でなければ務まらなかったのだ。与力、相撲取に火消しの頭は、女にはもちろん男にももてたのである。
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるが、鳶が裸になって華やかな彫り物を見せて喧嘩する、火事場へ駆け付けるから江戸の華なのである。その鳶と相撲取が喧嘩になった事件があった。
文化2年(1805)というから雷電が大関で全盛の時である。芝神明社の境内で春場所が行われた。その7日目に「め組」の鳶職・辰五郎と長次郎、その知人の富士松が無銭見物しようとしたのが発端。芝神明宮界隈はめ組の管轄であり、辰五郎と長次郎は木戸御免を認められていたが、友人の富士松はそうではなかったため、木戸で口論となった。そこへ力士の九竜山(十両)が通りかかって、木戸番に味方したので、辰五郎らはいったんひきさがった。
相撲を見そこねて、やや怒りがくすぶっていた富士松ら3人が今度は芝居の見物をしていると、相撲がはねた後、九竜山が芝居を見物に来たのである。すると先刻の恨みが再燃。富士松が九竜山に絡んで蹴り付け、辰五郎や長次郎、九竜山の同僚の藤の戸も巻き込んで、完璧に喧嘩になります。しかしここでは九竜山たちが引いて、一応収まりました。
しかし、その話を九竜山たちから聞いた兄弟子・四ツ車が「それでおまえらオメオメと引き下がってきたのか」とけしかけたため、力士たちが火消したちを追いかけて、神社境内で三度目のとうとう本格的な大喧嘩が始まってしまいました。事態に驚いた火消しの長治郎は、火の見櫓に昇って半鐘を叩きます。するとそれを聞いて大勢の火消したちが集結、更には話を聞いた力士たちも集まってきてとんでもない騒ぎになってしまいました。力士の中には抜刀する者もあり、多数の怪我人が出て、喧嘩は一説によると四時間近くも続いたといいますが、最後は(寺社奉行配下では手に負えず)南町奉行所の与力・同心たちが大挙出動して喧嘩していたものたちを全員縛り上げて、喧嘩を収めました。一番の張本人の富士松は、この時の怪我がもとで3日後に亡くなりました。けが人は多数出ましたが死者は一人だけです。
この問題の裁きについては、全体に相撲側に甘く、火消し側に厳しいものとなった。そもそもの発端が火消し側にあったことと、また、特に非常時以外での使用を禁じられていた火の見櫓の早鐘を私闘のために使用、事態を拡大させた責任が重く見られたためである。当時の南町奉行・根岸肥前守鎮衛は芝明神の半鐘が、かってに鳴り出したのが喧嘩の原因であると断罪、この半鐘に遠島を申しつけるという粋な計らいをして、寛大な処分をしました。辰五郎は百叩きの上江戸追放、早鐘を鳴らした長次郎と長松が江戸追放。力士側では九竜山のみ江戸払いを命ぜられ、ほか(170人ほど)は過料とお叱りだけで済んでいます。この遠島にされていた半鐘は明治になってから、お許しが出て(?)芝明神に戻されています。
なおこの事件を題材にして明治になって作られた芝居では、辰五郎が主役で、鳶側に同情的で相撲取は悪役ですね。「力士と鳶風情とは身分が違う」と言われ、辰五郎は「同じ人間じゃございませんか」といったセリフがある。講談もありますね。両方とも辰五郎が女房に離縁状を渡して悲壮な決意で喧嘩に臨む場面が泣けます。三田村鳶魚『江戸ばなし』によると辰五郎と九龍山は、水茶屋のひとりの女中を張り合っていて、それが争いの元になったと述べています。