「吉原と梅毒」
吉原などでは梅毒にかかることを「鳥屋(とや)につく」と言った。鷹の羽が夏の末に抜け落ち、冬毛に変わる前の時期に、鳥屋にこもってじっとしている様子が、梅毒にかかり毛髪の抜け落ちている様に似ていることから由来したものだという。
梅毒は十五世紀、琉球、長崎から日本に上陸した。初期の頃は「黴(ばい)毒」とも書いていたようです。「黴」は「かび」という意。発疹が楊梅(ヤマモモ)の実に似ていることから「梅」の字が当てられたともいわれています。当時梅毒は「かさ」(瘡)、「瘡毒」(ほうどく)などとも呼ばれた。
「かさっかき おらが手本と 異見する」
「どら息子 親の目を盗んで 鼻が落ち」
江戸時代、梅毒はほとんど治療方法のないものだった。現在では考えにくいことですが、梅毒にかかってこそ男は一人前、などと言ったり、梅毒の症状(ゴム腫などにより鼻が欠損したりする)を上の川柳のように笑いとばしていた。もっとも感染した本人はたまったものではないですね。
吉原などでは梅毒にかかることを「鳥屋(とや)につく」と言った。鷹の羽が夏の末に抜け落ち、冬毛に変わる前の時期に、鳥屋にこもってじっとしている様子が、梅毒にかかり毛髪の抜け落ちている様に似ていることから由来したものだという。
梅毒は十五世紀、琉球、長崎から日本に上陸した。初期の頃は「黴(ばい)毒」とも書いていたようです。「黴」は「かび」という意。発疹が楊梅(ヤマモモ)の実に似ていることから「梅」の字が当てられたともいわれています。当時梅毒は「かさ」(瘡)、「瘡毒」(ほうどく)などとも呼ばれた。
「かさっかき おらが手本と 異見する」
「どら息子 親の目を盗んで 鼻が落ち」
江戸時代、梅毒はほとんど治療方法のないものだった。現在では考えにくいことですが、梅毒にかかってこそ男は一人前、などと言ったり、梅毒の症状(ゴム腫などにより鼻が欠損したりする)を上の川柳のように笑いとばしていた。もっとも感染した本人はたまったものではないですね。
当時梅毒の薬として有名だったのは「山帰来」(さんきらい)という漢方薬でしたが、効果はあまりなかったようです。安永4年(1775)オランダ医師ツンベルグが水銀治療の指導を行い、ようやく水銀による治療法が始まることになります。その後、日本でもさまざまな治療法の研究が行われるが、いずれも副作用などを伴い、決定的な治療法は昭和四年(1929)のペニシリンの発見を待たなくてはならなかった。
感染経路はそのほとんどが性行為によるもので、その意味ではエイズと同じですね。また、梅毒に感染した妊婦から生まれた子供が先天性の梅毒患者となる。成長期に現れる特徴は角膜炎、難聴、特有な歯並び(ハッチンソン歯)で、有名な作曲家ベートーベン、シューベルトもそうでした。
俗に「三週 三ヶ月 三年」と言われ、感染以後の期間によりさまざまな症状が現れる。同じ病気でありながら、個人差があるのが特徴です。症状の経過を見てみましょう。
(第1期) 感染後約3週間で発症する。トレポネーマが侵入した部位に塊(膿を出すようになり、これを硬性下疳と言う)を生じる。塊はすぐ消えるが、稀に潰瘍となる。また、股の付け根の部分のリンパ節が腫れる。痛みを伴わないために見過ごすことが多く、いつの間にか治ったように見えることが多い。
(第2期) 感染後2~3ヵ月で全身のリンパ節が腫れる他に、発熱、倦怠感、関節痛などの症状がでる場合がある。赤い目立つ全身性発疹が手足の裏から全身に広がり、顔面にも現れる。治療しなくても1ヶ月で消失するが、抗生物質で治療しない限りトレポネーマは体内に残っている。また毛髪が抜け落ち、これを隠す目的でヨーロッパでは16世紀頃からカツラが大流行したといわれます。
(第3期) 感染後3年くらいで腫瘍(ゴム腫)が発生する。鼻骨が侵され鼻が陥没する。3期まで来ると治癒は不可能である。
(第4期) 感染後10年以降の状態。多くの臓器に腫瘍が発生したり、脳、脊髄、神経を侵され麻痺性痴呆、脊髄瘻を起こし(脳梅)、死亡する。
感染経路はそのほとんどが性行為によるもので、その意味ではエイズと同じですね。また、梅毒に感染した妊婦から生まれた子供が先天性の梅毒患者となる。成長期に現れる特徴は角膜炎、難聴、特有な歯並び(ハッチンソン歯)で、有名な作曲家ベートーベン、シューベルトもそうでした。
俗に「三週 三ヶ月 三年」と言われ、感染以後の期間によりさまざまな症状が現れる。同じ病気でありながら、個人差があるのが特徴です。症状の経過を見てみましょう。
(第1期) 感染後約3週間で発症する。トレポネーマが侵入した部位に塊(膿を出すようになり、これを硬性下疳と言う)を生じる。塊はすぐ消えるが、稀に潰瘍となる。また、股の付け根の部分のリンパ節が腫れる。痛みを伴わないために見過ごすことが多く、いつの間にか治ったように見えることが多い。
(第2期) 感染後2~3ヵ月で全身のリンパ節が腫れる他に、発熱、倦怠感、関節痛などの症状がでる場合がある。赤い目立つ全身性発疹が手足の裏から全身に広がり、顔面にも現れる。治療しなくても1ヶ月で消失するが、抗生物質で治療しない限りトレポネーマは体内に残っている。また毛髪が抜け落ち、これを隠す目的でヨーロッパでは16世紀頃からカツラが大流行したといわれます。
(第3期) 感染後3年くらいで腫瘍(ゴム腫)が発生する。鼻骨が侵され鼻が陥没する。3期まで来ると治癒は不可能である。
(第4期) 感染後10年以降の状態。多くの臓器に腫瘍が発生したり、脳、脊髄、神経を侵され麻痺性痴呆、脊髄瘻を起こし(脳梅)、死亡する。
有名なところでは家康の次男・結城秀康が梅毒で34歳で亡くなりました。本来なら秀忠ではなく彼が2代目になるところですが、小牧・長久手合戦の和睦で秀吉へ養子に出されたということと、梅毒で鼻が欠けて家康に嫌われたためといいます。越前福井の松平家が子孫の家ですね。
大石内蔵助は若い時から遊蕩を重ねたというが、梅毒と書かれたものはないようです。ただ息子の大三郎が、女好きの父親の血を引いて鼻が欠けています。討ち入りした義士のあまりにも評判のよさに浅野本家に召抱えられ、(同じ1500石で)大石内蔵助を名乗りました。広島で流行った落首があります。
「大石が召しだされしもくらのかげ、鼻の落ちたもまたくらのかげ」
終戦後、民間人では一人だけA級戦犯で起訴された大川周明は、法廷で東条英機の頭をたたいたことで有名になりましたが、梅毒による精神異常と判断され、裁判から除外されています。
終戦後、民間人では一人だけA級戦犯で起訴された大川周明は、法廷で東条英機の頭をたたいたことで有名になりましたが、梅毒による精神異常と判断され、裁判から除外されています。
「鳥屋につく」と言われた梅毒ですが、吉原でも、「鳥屋につく」ことで一人前の遊女であると言われた。
これは、梅毒にかかると自然に流産、死産が多くなり、妊娠しにくくなるためで、遊女は妊娠を恥とする感覚が当時あったことが背景となっている。また、鳥屋についていて毛髪が抜け落ち、うちしおれている様が美しい、ということまで言われていた。梅毒にかかって一人前と言われても、治療法があるわけではありません。高級遊女は自分の稼ぎから「出養生」といって寮(別荘)で養生することができましたが、下級遊女は悲惨なものでした。
彼女達は遊女屋のふとん部屋や、行灯部屋に入れられたまま放置され、時には食事すら満足に与えられなかったこともあったという。運良く第2期で症状の止まることもあったが、第3期に進むと、容貌も崩れ、遊女としての商品価値は皆無になる。そうなった遊女は吉原を追い出されます。親元に返されたりするのはよいほうで、夜鷹に身を落としたり、すさまじくは川や投げ込み寺に捨てられたりもした。江戸の享楽を担った吉原には、このように悲惨な側面もあったのです。
これは、梅毒にかかると自然に流産、死産が多くなり、妊娠しにくくなるためで、遊女は妊娠を恥とする感覚が当時あったことが背景となっている。また、鳥屋についていて毛髪が抜け落ち、うちしおれている様が美しい、ということまで言われていた。梅毒にかかって一人前と言われても、治療法があるわけではありません。高級遊女は自分の稼ぎから「出養生」といって寮(別荘)で養生することができましたが、下級遊女は悲惨なものでした。
彼女達は遊女屋のふとん部屋や、行灯部屋に入れられたまま放置され、時には食事すら満足に与えられなかったこともあったという。運良く第2期で症状の止まることもあったが、第3期に進むと、容貌も崩れ、遊女としての商品価値は皆無になる。そうなった遊女は吉原を追い出されます。親元に返されたりするのはよいほうで、夜鷹に身を落としたり、すさまじくは川や投げ込み寺に捨てられたりもした。江戸の享楽を担った吉原には、このように悲惨な側面もあったのです。