左『商売往来絵字引』 往来物は寺子屋の教科書の代名詞とされるものです。これは多色刷りではなく、後から彩色されたものです。幕末のものとされています。
右『世界商売往来』 明治になってからの往来物です。外国の事物と上部に発音のカナとアルファベットまでどん欲にその内容にもりこんでいる。明治になっても国定教科書が登場する明治37年まで、往来物は活況を呈していました。
「寺子屋について」
「幕末における嘉永年間(1850年頃)の就学率は70~86%といわれており、イギリスの主な工業都市で 20~25%(1837年)、フランス 1.4%(1793年)、ソビエト連邦 20%(1920年、モスクワ)と他国に比べ就学率が高かった。
右『世界商売往来』 明治になってからの往来物です。外国の事物と上部に発音のカナとアルファベットまでどん欲にその内容にもりこんでいる。明治になっても国定教科書が登場する明治37年まで、往来物は活況を呈していました。
「寺子屋について」
「幕末における嘉永年間(1850年頃)の就学率は70~86%といわれており、イギリスの主な工業都市で 20~25%(1837年)、フランス 1.4%(1793年)、ソビエト連邦 20%(1920年、モスクワ)と他国に比べ就学率が高かった。
幕末期には、江戸に約1500、全国では15,000の寺子屋があった。1校あたりの生徒数は10人から100人と幅が広かった」
(フリー百科事典『ウィキペディア』より)
江戸日本の教育水準がいかに群を抜いていたかが分かる。明治初期における日本の識字率は世界最高クラスにあったという。明治期の日本が急速に近代化を達成しえた背景として、寺子屋が高い教育基盤を江戸期の社会に与えていたという見方もできると思う。そうしたことを考えると、寺子屋が日本史に与えた影響というのは実に大きい。
江戸日本の教育水準がいかに群を抜いていたかが分かる。明治初期における日本の識字率は世界最高クラスにあったという。明治期の日本が急速に近代化を達成しえた背景として、寺子屋が高い教育基盤を江戸期の社会に与えていたという見方もできると思う。そうしたことを考えると、寺子屋が日本史に与えた影響というのは実に大きい。
寺子屋は、庶民の子どもが読み・書きの初歩を学ぶ簡易な学校であり、江戸時代の庶民生活を基盤として成立した私設の教育機関である。寺子屋の起源は、中世末期にまで遡り、それは、中世における寺院教育を母体として発生したものと見ることができる。「寺子屋」といい、「寺子」という呼称もここから発生したものといえる。江戸時代に入り、商工業の発展に伴い、寺子屋は都市部から農村・漁村へも広がりを見せ始め、江戸時代中期(18世紀)以降増加の度を強めていった。寺子屋の師匠は、僧侶・神官・医者・浪人・書家・町人などさまざまで、職業的経営の人もおれば、今流で言えばボランティアで、盆、暮れの「お志」程度で教える師匠も少なくはなかった。お師匠様たちは物質的には豊かでなくとも、近隣の人々に感謝され、尊敬されるという精神的な価値で十分満足できたのだという。
寺小屋は、公的制度ではなかったので、教える内容はそれぞれのお師匠さんにまかされていた。読み書きそろばんと習字の基礎的な知識の習得にとどまらず、論語などを通して人の道を教えた。
そんな寺小屋にも教科書がありました。『往来物』と呼ばれる手紙のやりとりをもとにしたものです。「百姓往来」、「番匠往来」(大工の子供用)、「商売往来」など、お師匠さんは親の職業を見て、その子供に合ったものを選んでいた。ビジネススクールの面もあった。また子供の能力に応じて教え、実用的な個人教育をしていたのである。女子にはお師匠さんの妻が裁縫などを教えることもあった。
この時代のボランティアのお師匠さんが、現代の教育を見たら、さぞかしぶったまげることであろう。子供に教える者は、すべてお上から禄をいただいていることに驚くであろう。すべての子供に均一な詰め込み教育をしていることに対して驚き、そして、人としての道を教育しないのに驚くことであろう。
教育の根本は生徒が師を尊敬することから始まるという。先生と生徒が対等に口を利いて敬語も使わない今の学校は、教育とは言えないと思うが如何だろう。
寺子屋には年齢の決まりなどはなかったが、5~7歳の2月の初午の日に入学するというのが一般的でありました。『江戸の備忘録』』(磯田道史著 朝日新聞出版)によると、授業料は年5回払いで、江戸では金一朱(1両の16分の1)ずつ5回納めるのが通例であるとし、農村部では江戸の半額ほどとのことです。
教育の根本は生徒が師を尊敬することから始まるという。先生と生徒が対等に口を利いて敬語も使わない今の学校は、教育とは言えないと思うが如何だろう。
寺子屋には年齢の決まりなどはなかったが、5~7歳の2月の初午の日に入学するというのが一般的でありました。『江戸の備忘録』』(磯田道史著 朝日新聞出版)によると、授業料は年5回払いで、江戸では金一朱(1両の16分の1)ずつ5回納めるのが通例であるとし、農村部では江戸の半額ほどとのことです。
どちらかというと寺子屋の名称は、主に上方で用いられ、関東では手習指南所や手跡指南などと呼ばれたそうです。寺子屋の「子屋」が「小屋」に通じること、また「屋」が屋号に通じることが教育の場の名称に適切でないとされたからです。