以下、石塚豊介子『街談文々集要』に拠る一文です。旧かな表現は直しましたから読むことができると思います。
文化元年(1804)五月四日の頃に両国川(隅田川)に身なげ心中あり。
男は二十一二、女は十六七、対のゆかたにて互いに抱合い、緋縮緬(ひちりめん)の帯にて結びあい溺死してあり。女の髪の飾りも銀鼈甲(べっこう)の楴枝簪(こうがいかんざし)にて、二人とも甚だうるわしく見へけるに江戸中大かたの評判となりて、皆船にてこれを見に出る者多し。
汐のさし引により、源平堀のあたりより新大橋の辺までゆきかへり流れしを、船にて乗りまわしてこれを見る。
初め一人八文づつにて見せるが、後は十六文或は廿四文より三拾二文、のちのちは半百(50文)に及ぶ。この見物を乗せたる舟幾艘ともしれず、船頭は情死によりて思わぬ銭もうけしたり。三四日斯(か)の如くただよいたれど知るべの者も出ず。何者の仕業か浴衣、髪の道具は夜の間に盗まれたり。(さらに下着の)絹布の袷(あわせ)ひとつづつ着し居るをもはぎとり、されどさっするに不憫(ふびん)にやおもひけん、縄にてもとのごとく二人一諸に繋ぎ置たるよし。
はや五六日に及べど、誰引取者もなき所に、大川端の廻船問屋仲間中にて引上げ、深川浄心寺へ葬たるよし。死の晴着にしたる衣類をはぎ取る心 鬼なるべし。水死のものの衣類をはぎとるもの俗に川はぎと云々。又、死人を五十文づつも出して見る人の心、これまたいかならん。
(中略、後になって輪「しがらき」という茶屋に書置があり、二人の身元が判明した)
相対死(心中)いたし者は、品川徒歩新宿水茶屋鈴木太七、養女たつ十八才、同町かんな台屋太兵衛養子、栄次郎二十五才。妻子もあり、尚当月妻臨月なるよし。
「かんな台屋」とは、かんなの台を加工する職人であろうか、臨月の妻を残し、罪作りな奴だ。三~四日ただよっているうちに衣類をはがされ、五~六日潮の満ち引きで川を上下していたという。その間見世物扱いされて船宿が儲けたとある。首を傾げたくなるのは、町奉行がすぐに引上げを指図しなかったということである。
江戸では土左衛門は見て見ぬふりで、海に流れて行くにまかされる風潮があったという。もっとも今では水死体のことを土左衛門なんて呼びませんね。
江戸川柳に「舟遊山 土左衛門が来て しんとする」という句がある。飲めや唄えの賑やかな舟遊びが、土左衛門が流れてきて、急に静かになってしまった、という情景が浮かぶ。享保年間に、関脇までつとめた成瀬川土左衛門という力士が、色白で肥満していて、その姿が水死人のようだったことから、「土左衛門」は溺死体の代名詞になってしまった。もはや若い人には通じない死語であろう。
「しんとなる」気分も 「心中した死体」を、金を払ってでも見たい心理も同じ人の気分というものだろう。(私の)幼い頃、隣町の浜に上がった土左衛門を父に連れられて見に行った記憶が強烈に残っている。(子供を連れて見に行く親もどうかしている)
この世で添い遂げることができなければあの世で、という心中は、日本人の来世思想によるものだろうか。「心中」は本来「しんちゅう」と読み、幕府は「心中は漢字の「忠」に通じる」としてこの言葉の使用を禁止し、「相対死」(あいたいじに)と呼んだ。たしかに忠は下から読めば心中である。
「曽根崎心中」(元禄16年1703)や「心中天網島」(享保5年1720)の歌舞伎上演のヒットにより、心中が増えたために、享保7年には心中物の上演を禁止した。
幕府は、心中した者を不義密通の罪人扱いとして厳罰に処した。死んだ場合は「遺骸取捨」として葬儀、埋葬を禁止し、一方が死に、一方が死ななかった場合は生き残ったほうを死罪とし、また両者とも死ねなかった場合は非人身分に落とした。