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Channel: 勢蔵の世界
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御殿山騒動

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           江戸名所四季の詠『御殿山花見之図』 広重 
 
 嘉永2年(1849)の春、晴天にさそわれるかのように桜の名所には花見客がどっと繰り出し、品川の御殿山も群集でごった返していた。
 三田の伊予松山藩(久松家)の中屋敷の足軽18人が連れ立って御殿山に花見に出かけることになったが、普通の花見ではつまらない。そのころ、疱瘡(天然痘)が流行して、江戸では子供の葬礼が多かった。
 「子供の葬儀という趣向にしようじゃないか」、「それはおもしろい」
 と、衆議一決するや子供用の早桶(棺桶)を買い求めてきた。早桶に弁当を詰め、棒でかつぐ。マグロの刺身を詰めた焙烙(ほうろく・土鍋)を棒の先にぶらさげた。さらに、赤土を竹の皮に包み、こわ飯に見せかけた。
 足軽たちが早桶をかついで御殿山に繰り込むと、女子供は気味悪がり、息をひそめている。たまたま、「み」組の鳶の者五、六人が桜の下で酒盛りをしていた。調子に乗った足軽たちはそこに乗り込み、竹の皮に包んだ赤土を差し出した。酒がはいっていたこともあり、鳶の者は激怒し、
 「てめえ、酒の邪魔をしやがる気か」
 と、赤土を包んだ竹の皮を足軽の顔面にたたきつけた。
 足軽は最下級の武士であるが、武士であることに違いはない。町人に顔を殴られ、こちらも激怒する。足軽が腰に差した脇差を抜こうとするところ、鳶の者が飛びかかり、鞘ごと奪ってしまった。そして、鞘のまま殴りつける。鞘が割れて、足軽は怪我をした。 もう、あとは入り乱れての大喧嘩である。
 鳶のひとりが品川宿に走った。たまたま品川宿は火事のあとで、再建の最中であり、多くの鳶の者がいた。知らせを聞くや、
 「なにぃ、侍と喧嘩だとぉ」
 み組とめ組の鳶の者はいきり立ち加勢をするため仕事は放り出し、大勢が御殿山に駆けつける。人数が増えたため、鳶の者のほうが優勢になった。18人の足軽をみなぶちのめしてしまった。
 騒動の知らせを受け、あわてたのが松山藩の重臣である。留守居役三人が相談し、とにかく事件をもみ消すことに決めた。三人が奔走して各所に金を出し、すべて内分におさめた。喧嘩相手の鳶の者にも怪我の治療費として金を渡し、内済にした。怪我をした足軽は怪我のし損である。18人のうち、13人は松山藩から追放され、3人は国許に帰国を命じられ、ふたりは叱責されて終わった。
                                
(藤岡屋日記』に拠る)

 これだけの話なんですけどね。武士は幕臣、諸藩の藩士を問わず、ひたすら外聞をはばかり、なにか不祥事があれば金を使って揉み消そうとしていたことがわかる。
 上野の寛永寺、王子の飛鳥山、向島の隅田川堤、玉川上水沿いの小金井、品川の御殿山、これらが江戸市民に愛された花見の名所である。
 嘉永6(1853)幕府は海防強化策として大砲を据えた台場を造るために御殿山を切り崩して埋め立てた。資金不足で途中で工事をやめたり、未着工で終わった台場もある。幕府は開国後、御殿山に英国公使館の建設を始めた。ところが建設途中、攘夷派の長州藩士、高杉晋作や伊藤博文らにより焼き払われてしまう。この文久2(1862)の御殿山英国公使館焼打事件で工事は中止、喝采したのは江戸市民だ。攘夷派を支持したというより、大切な桜を切り倒して外国の公使館を建てることが当時の人々の反感を買った。
 現在、御殿山という住居表示はないが、(今の品川区北品川3丁目~5丁目付近)この地域は、最新の設備を誇る高層ビル・ホテル、大使館や美術館があり、大きな邸宅が立ち並ぶ都内有数の高級住宅地になっている。
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