先日、隣町にある「鉢木」というステーキハウスで食事しました。「どうだ、うまそうだろう」といった料理の写真は載せません。そのてのブログではないからです。
信濃から鎌倉へ上ろうとする一人の旅の僧が、途中、上野国佐野のあたりで雪に降り込められてしまいます。通りかかった一軒家に宿を借りようとすると、その家の妻は主人が留守だから待つように言います。やがて、雪の中を帰ってきた主人は、夫婦二人すら暮らしかねている有様の見苦しい家ですからと断り、十八町先の宿場を教えます。しかし、大雪の中を立ち去る旅の僧の後姿を見て、気の毒に思い、呼び戻します。そして、貧しい粟飯を出してもてなし、梅・松・桜が植えられた秘蔵の鉢から木を引き抜き、囲炉裏にくべて暖をとらせます。僧がその人となりに感じ、名を尋ねると、佐野源左衛門常世のなれの果てですと名乗り、領地を一族のものに横領され、零落しているが、今でも鎌倉に一大事が起これば、一番に馳せ参ずる覚悟だと、その意気を洩らします。翌朝、旅の僧は、礼を言って家を後にしました。
<中入>
それからまもなく、鎌倉で兵を集めるというので、源左衛門も痩馬に打ち乗って駆けつけます。北条時頼は、集まった軍勢の中から源左衛門を探させた。
<中入>
それからまもなく、鎌倉で兵を集めるというので、源左衛門も痩馬に打ち乗って駆けつけます。北条時頼は、集まった軍勢の中から源左衛門を探させた。
「佐野源左衛門、あのときは世話になったな」、過日の旅の僧は自分であったと明かし、彼の忠誠を賞して、旧領を取り戻させた上、梅田、松井田、桜井というあの時に薪にされた鉢木に縁のある三か所の荘園を与えたのです。
以上「鉢木」(はちのき)は能の一曲。いかにも作り話くさいが、それは言わない。鎌倉時代から室町時代に流布した北条時頼の廻国伝説を元にしている。観阿弥・世阿弥作ともいわれるが不詳。武士道を讃えるものとして江戸時代に特に好まれた。また「質素だが精一杯のもてなし」ということで、この名を冠した飲食店が関東に多いと聞きます。
天明4年(1784)に田沼意次(老中)の息子で若年寄の意知が、江戸城内で佐野政言(まさこと・旗本500石)に刺殺された。これを契機に松平定信ら反田沼派が台頭することとなり、意次の権勢が衰え始める。
江戸市民の間では「世直し大明神」として佐野を賞賛して、
「鉢植えて梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」という先祖に掛けた落首が広まった。世間にも昔の故事はよく知られていたようです。
むろん佐野は改易のうえ切腹させられたが、犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借り返さなかったとも、佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領し田沼大明神にしたとも、田沼家に賄賂を送ったが一向に昇進出来なかった事など諸説あったが、幕府は乱心とした。
もっとも、佐野政言の家系は三河譜代で、故事の佐野氏の子孫ではないようです。