「傾(かぶ)く」という動詞があります。「人目につくような常道をはずれたなりふりをする」と広辞苑にある。「傾き者」は、「華美な服装をした伊達者」で、慶長(1596~1615)頃、出雲の巫女・阿国が男装、帯刀の異様な姿で歌い踊った舞踏劇を「歌舞伎踊り」と称し、「歌舞伎」の興りとされる。
旗本奴(はたもとやっこ)とは、旗本とその奉公人およびその集団の傾き者で、江戸時代前期の江戸に存在した。派手な異装をして徒党を組み、無頼をはたらいた。代表的な旗本奴は、水野十郎左衛門の「大小神祇組」で、ほかに「鉄砲組」、「笊籬組」(ざるぐみ)、「鶺鴒組」(せきれいぐみ)、「吉屋組」、「唐犬組」といった合計6つの団体が知られ、それらを「六方組」(ろっぽうぐみ)とよび、旗本奴を六方と町人は呼んだ。もっとも「唐犬組」の頭目は町奴の唐犬権兵衛です。「旗本奴」といえば、「白柄組」(しらつかぐみ)が有名ですが、これは後の歌舞伎劇での名称。
水野十郎左衛門成之(1630~1657)は旗本・水野成貞(3000石)の長男として生まれる。成貞は前の稿で述べた水野勝成の三男ですから十郎左衛門は鬼日向の孫になります。旗本奴のハシリは成貞で、刀の柄に棕櫚(しゆろ)を巻き仲間を集めて「棕櫚組」を名乗っていた。肖像画や長久手の合戦屏風に描かれる祖父勝成の刀の柄が白いところから「白柄組」と歌舞伎の脚本家に名付けられたのでしょうか。
「旗本奴」と「町奴」との間には抗争が絶えず、明暦3年(1657)7月18日、十郎左衛門は町奴の大物・幡随院長兵衛を殺害した。このときは「御家創業の功臣の血統を、やみくもに罰せられない」と老中評定で無罪になっている。祖父のお陰である。
しかし行跡は改まらず、十郎左衛門は寛文4年(1664)3月26日に母・正徳院の実家・蜂須賀家にお預けとなった。それにしても3000石の旗本と25万7000石の阿波・蜂須賀家では、提灯に釣鐘ですね。往来を堂々と闊歩する成貞のカッコよさに、駕籠から見た阿波の萬姫(正徳院)がひとめ惚れしたのだという。ちなみに彼女の姉・三保姫は岡山の池田忠雄(31万5200石)に嫁いでいます。
翌27日に評定所*へ召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬なので即日に切腹となった。享年35。2歳の嫡子・百助も誅されて家名断絶となった。なお、反骨心の強さから切腹の際ですら正式な作法に従わず、膝に刀を突き刺して切れ味を確かめてから腹を切って果てたという。正徳院とともに蜂須賀家に預けられた弟の忠丘が、元禄14年(1701)に旗本となったことで家名は存続した。(*評定所=町奉行、寺社奉行、勘定奉行と老中1名で構成され、これに大目付、目付が審理に加わる)