雛祭りにはまだ早いですが、上の画像は、鹿児島に伝わる薩摩藩5代藩主・島津継豊(つぐとよ)の妻・竹姫が、輿入れの際に持参したといわれる見事な雛人形とお道具類で、約98種、550点にものぼります。七宝繋(しっぽうつなぎ)平蒔絵の精巧な雛道具には、ひとつひとつに徳川家の三ツ葉葵紋と島津家の牡丹紋とが描かれています。
竹姫(権大納言清閑寺熈定の娘)は五代将軍・綱吉の養女であったが、嫁ぎ先が決まりながら、婚約者が若くして亡くなるという不運に、二度にわたって見舞われた。最初は会津藩主・松平正容の嫡子久千代(正邦)と婚約するも、久千代は早世。二度目は有栖川宮正仁親王と婚約し、結納まで済ませるも、入輿を前に親王は没してしまう。その後は不吉な印象と、将軍家との婚姻には莫大な経費がかかるため敬遠されて、25歳でようやく薩摩藩への輿入れが決まりました。25歳の結婚は現代では普通ですが、当時としては大変遅い。
「厄よけへ行く振り袖は売れ残り」という江戸川柳がある。川崎大師へ厄除けに行く娘は19歳、娘盛りは15~18歳だから、振袖は売れ残りという句ですが、江戸時代、はたちを超すと年増と呼ばれた。
藩主夫人竹姫(浄岸院)は、のちにわずか11歳で八代藩主となった義理の孫・重豪(しげひで)の養育に力を注いで支え、御三家一橋家から、重豪に妻を迎えて、将軍家とのつながりを深めます。さらに、重豪(しげひで)のもとに娘が、一橋家に男子が生まれたら縁組みさせるよう遺言して亡くなるのです。
その言葉どおり、重豪には娘・茂姫が、一橋家には後の11代将軍・家斉が生まれ、二人は結ばれました。茂姫は将軍御台所となると大奥で絶大な権勢を誇り、父親の重豪も外様大名でありながら将軍の舅として薩摩藩の発言力を高めます。そして、それは13代将軍家定とあの篤姫の婚姻へとつながります。
幕府は開幕当初から、薩摩藩を非常に警戒しています。熊本城-福岡城-姫路城-大坂城-名古屋城といったように、堅牢な城を配置したのは、仮想敵である島津対策とも言われます。島津家との婚姻で結びつきを深めた幕府ですが、幕末に入っても島津家を警戒する態度は、相変わらず続いています。
幕末期に薩摩藩内で権力を握った島津久光(重豪のひ孫)は、幕府のためを思って、色々と苦心して公武の間(朝廷と幕府の間)を斡旋する努力をしていますが、幕府はそんな久光を信用しません。幕府の態度に嫌気がさした久光は、一気に倒幕へと走ることになってしまうのです。