王海清さんが植えた霧社の桜 ↑
ヒカンザクラ(緋寒桜)とも、ヒザクラ(緋桜)とも呼ばれる。旧暦の正月(1月下旬)あたりに咲くことからガンジツザクラ(元日桜)と呼ばれることもある。
台湾の「花咲爺さん」
台湾の内陸部に位置する南投県埔里の町。この埔里から霧社まで、約二十数キロの山道に、いまも桜の木を植えつづけている方がおられます。
今年(2012年)83歳をむかえた王海清さんです。お訪ねしたのは、1月末でしたが、沿道には王さんが植えられた、うす紅の山桜の花が満開でした。
王さんは、日本の統治時代に国民学校で6年間、日本の教育をうけました。そのとき、いちばん心に残ったのが、国語の教科書にのっていた「サイタ サイタ サクラガサイタ」でした。子供心にも、まだ見たこともない桜へのあこがれが、このころに芽生えたといいます。そして昭和17年、王さんは志願兵として、高雄の海軍陸戦隊に入隊。
「徴兵じゃないよ、志願兵だよ」と、王さんは何度も誇らしげに話されます。そのときに『同期の桜』を、うたってくださいました。
「♪貴様と俺とは 同期の桜 同じ高雄の 庭に咲く 咲いた花なら 散るのは覚悟 見事散りましょ 国のため・・これ、日本時代の兵隊の歌。パッと咲いて、パッと散る。サッと散るのは、お国のために死にましょうという心。これが桜にこめた日本人の心だよ」
沖縄戦に参戦する予定で、高雄で待機していた王さんの部隊でしたが、輸送船がつぎつぎと撃沈されたために、そのまま終戦を迎えました。戦後まもなく、王さんが移り住んだのが霧社でした。そこには、日本人が植えた桜が、数百本も残っていたのです。それが、王さんが生まれてはじめて目にした桜でした。
「桜を見たときうれしかった。ああ、これが桜だ、と思った」
ところが、その桜が、道路拡張工事のために、次々に切り倒されたのです。王さんはそれが残念でたまらず、村の役場や有力者の人々をあつめて、桜を植える相談をしました。桜再生の相談はまとまりましたが、いつまでたっても、だれひとりとして、桜を植えようとはしません。そこで王さんはひとり、だれにも告げず、日本人が植えた桜の種から育てた苗を、霧社から埔里への沿道に植えはじめました。その数はなんと、一年間で3200本。
やがて大きく育ち、白や紅の花を咲かせるうつくしい桜。その桜のうつくしさにひかれて、根こそぎ桜の木を持ってゆく人が、跡をたたなくなりました。抜かれては植え、抜かれては植え、この20年間で、王さんが「補足」した桜は、1800本にもなります。あるとき、桜の木を盗んでいるのを見た人が、そのあとを尾行して王さんに、
「盗んだ人の家をつきとめたから、警察に突き出しなさい」と言いました。でも王さんは、その人をとがめようともしません。
「いいんだ、その人が取って帰って植えても、人が見て、きれいだなと思ってくれたらいいよ。個人じゃない、みんなが見てくれたらいいんだ」
道ゆく人が、桜を植える王さんを見て声をかけます。
「いくらで雇われているんだね?」 村から雇われて桜を植えていると思うからです。
「月に二万元だよ」
自腹で桜を植えていることなど、だれも信じてくれないので、そう言い続けてきたのです。
「黙って植えて、桜が咲く。それが私の成功」
あるとき、自動車事故で、王さんの植えた桜の木があったために、命が助かった人がありました。その事故がきっかけとなって、王さんが20年間、無償で桜を植えつづけたことが、はじめてわかったのです。そして、台湾では個人としてははじめて、台湾交通部(日本の国土交通省に当たる)から、最高の栄誉である「金路賞」を受賞したのです。
インタビューにうかがった翌朝、王さんはいつものように5時に起きて、霧社から歩きはじめます。脳梗塞で動かなくなった右手にかわって、左手に剪定鋏をさげて……。
「王さんは、死ぬまで桜を植えつづけるんですか?」
「桜を植えると決めたら、植えつづける。これが日本精神だよ」
そのひとことが、台湾の心地よい風と、桜の彩りともに、いまもわたしの心の奥にひびいています。
台湾の内陸部に位置する南投県埔里の町。この埔里から霧社まで、約二十数キロの山道に、いまも桜の木を植えつづけている方がおられます。
今年(2012年)83歳をむかえた王海清さんです。お訪ねしたのは、1月末でしたが、沿道には王さんが植えられた、うす紅の山桜の花が満開でした。
王さんは、日本の統治時代に国民学校で6年間、日本の教育をうけました。そのとき、いちばん心に残ったのが、国語の教科書にのっていた「サイタ サイタ サクラガサイタ」でした。子供心にも、まだ見たこともない桜へのあこがれが、このころに芽生えたといいます。そして昭和17年、王さんは志願兵として、高雄の海軍陸戦隊に入隊。
「徴兵じゃないよ、志願兵だよ」と、王さんは何度も誇らしげに話されます。そのときに『同期の桜』を、うたってくださいました。
「♪貴様と俺とは 同期の桜 同じ高雄の 庭に咲く 咲いた花なら 散るのは覚悟 見事散りましょ 国のため・・これ、日本時代の兵隊の歌。パッと咲いて、パッと散る。サッと散るのは、お国のために死にましょうという心。これが桜にこめた日本人の心だよ」
沖縄戦に参戦する予定で、高雄で待機していた王さんの部隊でしたが、輸送船がつぎつぎと撃沈されたために、そのまま終戦を迎えました。戦後まもなく、王さんが移り住んだのが霧社でした。そこには、日本人が植えた桜が、数百本も残っていたのです。それが、王さんが生まれてはじめて目にした桜でした。
「桜を見たときうれしかった。ああ、これが桜だ、と思った」
ところが、その桜が、道路拡張工事のために、次々に切り倒されたのです。王さんはそれが残念でたまらず、村の役場や有力者の人々をあつめて、桜を植える相談をしました。桜再生の相談はまとまりましたが、いつまでたっても、だれひとりとして、桜を植えようとはしません。そこで王さんはひとり、だれにも告げず、日本人が植えた桜の種から育てた苗を、霧社から埔里への沿道に植えはじめました。その数はなんと、一年間で3200本。
やがて大きく育ち、白や紅の花を咲かせるうつくしい桜。その桜のうつくしさにひかれて、根こそぎ桜の木を持ってゆく人が、跡をたたなくなりました。抜かれては植え、抜かれては植え、この20年間で、王さんが「補足」した桜は、1800本にもなります。あるとき、桜の木を盗んでいるのを見た人が、そのあとを尾行して王さんに、
「盗んだ人の家をつきとめたから、警察に突き出しなさい」と言いました。でも王さんは、その人をとがめようともしません。
「いいんだ、その人が取って帰って植えても、人が見て、きれいだなと思ってくれたらいいよ。個人じゃない、みんなが見てくれたらいいんだ」
道ゆく人が、桜を植える王さんを見て声をかけます。
「いくらで雇われているんだね?」 村から雇われて桜を植えていると思うからです。
「月に二万元だよ」
自腹で桜を植えていることなど、だれも信じてくれないので、そう言い続けてきたのです。
「黙って植えて、桜が咲く。それが私の成功」
あるとき、自動車事故で、王さんの植えた桜の木があったために、命が助かった人がありました。その事故がきっかけとなって、王さんが20年間、無償で桜を植えつづけたことが、はじめてわかったのです。そして、台湾では個人としてははじめて、台湾交通部(日本の国土交通省に当たる)から、最高の栄誉である「金路賞」を受賞したのです。
インタビューにうかがった翌朝、王さんはいつものように5時に起きて、霧社から歩きはじめます。脳梗塞で動かなくなった右手にかわって、左手に剪定鋏をさげて……。
「王さんは、死ぬまで桜を植えつづけるんですか?」
「桜を植えると決めたら、植えつづける。これが日本精神だよ」
そのひとことが、台湾の心地よい風と、桜の彩りともに、いまもわたしの心の奥にひびいています。