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日米修交通商条約批准使節

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左から副使・村垣淡路守範正(48)、正使・新見豊前守正興(40)、目付・小栗豊後守忠順(34
「日米修交通商条約批准使節」について 

 1860年、幕府は、日米条約の批准書の交換のため正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、目付・小栗豊後守忠順の3人を使節として正式にアメリカに派遣しました。この使節はアメリカ政府が提供した軍艦ポーハタン(日本来航時のペリー提督の旗艦)に乗船しました。勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎が乗る咸臨丸はサンフランシスコまでです。
 新見豊前守以下80人の一行は、咸臨丸をサンフランシスコに残し、南下して、パナマを汽車で横切り、再び船で北上してワシントン、ニューヨークを訪問し、使節団は大歓迎を受けます。328日に使節一行はワシントンでブキャナン大統領と謁見し、522日批准書の交換を終えます。ニューヨークではブロードウェイをパレードしますが、群集が鈴なりになってその様子を見つめました。そのときの様子を見た、詩人ウォルト・ホイットマンによる詩 「The Errand-Bearers(使命を帯びた者たち)が、1860627日付の「ニューヨーク・タイムズ」新聞に掲載されています。

 西方の海を越えて、ニホン国より此方へとやってきた、
謙譲にして、色浅黒く、二刀差しの使節たち。

無蓋のバルーシ(四輪馬車)に反りかえり、
無帽なまま、厳粛に 今日、マンハッタンの往来を乗りすぎる。
「創始の女神」がやってくる。
さまざまな言語を育んだ巣、かずかずの詩篇を遺した者、
古代の種族が 血色が鮮やかで内省的、うっとりとして瞑想に沈み、
熱い思いに身を焼きつつ、香料にむせるがごとく、
ゆったりと裳裾の長い衣服をまとい、日焼けした顔、
熱烈な魂、きらきら輝く瞳をそなえた、梵天の一族がやってくる

  (ホイットマン「草の葉」より 岩波文庫版中巻)

 新見豊前守は、時に40歳。今でいうイケメンです。その知性的で甘いマスクはアメリカ国民の人気を得たという。二千石の旗本で外国奉行であったから正使となっただけで、取り立てていうほどの政治的手腕があったわけではないが、「端麗なる容姿」によって幕臣の中でもひときわ異彩を放っていたという。城中に上がると奥女中衆が騒ぎ立てるほどの美男子だったという。「陰間侍」という仇名がついていたそうで艶聞も多かったらしい。(宮永孝「万延元年の遣米使節団」による) 「陰間」というのは、美少年趣味のことで、若い頃にその対象にされたのかもしれない。戦国時代から江戸時代の侍社会ではめずらしいことではない。
 副使の村垣淡路守は、函館奉行、神奈川奉行、勘定奉行など歴任した能吏です。日本人に同行したアメリカ軍人は「日本人は常に日記を書き、短い文書、言葉など何でも写しとっていた、まさに蜂のように勉強をしていた」と書き記しているが、村垣も『遣米使節日記』なるものを遺していて、その中でアメリカ人の立ち振る舞いについて面白い記述をしています。ワシントン滞在初日に、一行が群衆に囲まれてアメリカ政府高官が出迎えてくれるウィラードホテルに到着したときの模様を、まるで江戸の祭日のようだ、どうして全くの遠慮もなく、あのように騒々しく振る舞うのか理解に苦しみ困惑する、更に(そのような様子に)時々、心から笑いが出てしまった、と記しています。また街をパレード中に、一行の馬車の中をのぞき込んだり、一行の服に触ったりと、その行儀の悪さに閉口している。
 アメリカ滞在中、一行は至るところで大規模なレセプション、晩餐会、舞踏会、パレードなどで出迎えられ、アメリカの大衆、新聞からは熱狂的といっていい歓迎を受けた。新見豊前守はじめ使節代表は、常に物静かで威厳があり、驚きや賞賛といったものを言葉にも表情にも出さない、と当時のアメリカの新聞は報じています。このような立ち振る舞いが、一行を覆っていた東洋の神秘というオーラを一層深めたのでしょう。
 特筆すべきは、ナンバー3の位置に小栗上野介 (当時は豊後守)がいたことでしょう。時に34歳。
 「目付」というは、それぞれがきちんと役目を果たしているか監察する役職ですね。英語では「スパイ」と訳されましたが、詳細な報告義務を担っていましたから、重なるところもあるのですが、ちょっと違いますね。トラブルに際しては、警察権を施行します。
 司馬遼太郎氏が著書「明治という国家」の中で、小栗を「明治の父」と呼んでもいいと高く評価しています。激動の幕末、小栗は後に幕府財政破綻の中、反対を押し切り、巨額の予算を要する横須賀造船所を建設した。彼は「あのドックができあがった上は、たとえ幕府が亡んでも"土蔵付き売家"という名誉を残すだろう」と言い、これが次の時代に大いに役立つことを知っていた。そして幕府の兵を洋式化しました。幕府が滅びるのを十分承知の上で、改革を断行し、非業の最期を遂げた幕府の俊秀でした。
 大隈重信は、「明治政府のやることは、みな小栗の模倣だ」と語ったと言います。日本の将来への不安を抱き、近代化のための幕府大改革に取り組みましたが、このような熱い思いを抱かせたのは、若き小栗がアメリカで見た西洋文明の驚くべき技術、工業力だったのです。
(参考、HP・日米交流150年史)

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