Quantcast
Channel: 勢蔵の世界
Viewing all articles
Browse latest Browse all 253

旗本が吉原の遊女と心中

$
0
0
イメージ 1
   「箕輪の心中」↑  明治44年3月作。同年9月上演、明治座、市川左団次らによる。旗本藤枝外記と花魁・綾衣(あやぎぬ)との道行。心中物といえば近松風の世を儚んで泣く泣く死んで行くのではなく、世を嘲笑って笑いながら死んで行くものとして新味があったという。
 「前代未聞!旗本が吉原の遊女と心中!」
 こんなセンセーショナルな事件が瓦版を飾ったのは、天明5年(1785)のことでした。
 藤枝外記(諱は教行)は、四千五百石の旗本で、屋敷は湯島妻恋坂にあった。外記は、吉原の大菱屋の抱え遊女・綾絹と深い馴染みになった。富裕な町人が金にあかせて、綾絹を身請けするという話を耳にした外記は、自暴自棄になり綾絹をひそかに吉原から連れ出し、ほど近い千束村の百姓家に隠した。だが、すぐに大菱屋に知られることとなり、外記は綾絹を刺し殺したあと、自害した。外記二十八歳、綾絹十九歳だった。外記には綾絹と同じ十九歳の妻がいた。
 当初、藤枝家では外記の心中を隠し、家来のひとりとして役人の検死を受けたが、この隠蔽工作はばれて、藤枝家は改易となった。
 遊女との禁断の恋を選んだ男の生き様は世間の注目を浴び、
 「君と寝ようか五千石取ろか、何の五千石、君と寝よ」
という端唄までできた。五百石増えたのは、語呂がよいからであろう。

 『岡本綺堂 江戸に就ての話』によると、将軍にお目見えできる格式を持つ直参旗本の中で禄高五百石以上を「お歴々」と称し、千石以上を「大身」といったという。さらに「旗本も四千石となると立派なもので、殆んど一種の大名のようなものです」とある。
 外記は、江戸ばかりでなく全国にその名を馳せた。もちろん、当時の良識派は、外記を物笑いの種にしましたが、庶民の間では五千石振った外記に喝采でした。


 この藤枝氏は譜代ではなく、家祖は、徳川家光側室の順性院(お夏)の父・藤枝重家。重家は、もとは京都町人で娘の玉の輿に乗って士分に取り立てられ、娘が産んだ綱重(第4代将軍・家綱の弟の家老となった家柄である。
 外記は旗本・徳山家(美濃徳山を本官地する)からの養子で、妻のみつも藤枝家の娘ではないようです。心中の当時、その養母はまだ存命であつたという。高尾を請出した榊原侯も養子でありました。養子のために家をほろぼされた藤枝家は氣の毒であるが、あるいは彼が養子であったということのために、心中の悲劇が醸し成されたのではないかとも想像される。
 
 なお、吉原は高い塀と、お歯黒ドブという堀で囲まれ、唯一の出入り口である大門では遊女の脱出を厳重に監視していた。簡単には外に連れ出せない。三田村鳶魚は『足の向く儘』で、当時、新吉原は火災直後で遊女屋は仮宅、つまり新吉原以外の土地での仮営業中だったので、それができたのだろうと記している。大菱屋の仮営業地は西両国で、かなり開放的だったようです。
 この話を題材にして、明治になって岡本綺堂が「箕輪心中」を書き、それが芝居になっています。さすがに髷をつけていた時代は、武家政権のお膝元で、旗本を題材にした芝居はできなかったようです。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 253

Trending Articles