日本橋・駿河町の様子である。(現在は道の左側が三越本店、右側が三井住友銀行日本橋支店)
遠くに富士山が描かれている。この頃の絵は、銭湯の壁絵のように何でも富士山を入れるんだな、と勝手に思っていたら大違いで、当時実際に見えた。(上の画はかなりデフォルメされているが) 江戸時代は、通りの向こうに富士山が見えるように町を造ったのだという。
「三井高利」 (1622~1694)
のちの三井財閥の基礎を築いた人です。高利は諱(いみな)ですから、在世中は「高利さん」とは呼ばない。通称は八郎兵衛です。
三井高利の祖父・高安の代まで近江・六角氏に仕える武士だった。「越後屋」は先祖が「越後守」を名乗っていたのが由来です。高安の子・高俊が武士をやめて商人になり、伊勢松阪で質屋と酒屋を始めた。近江日野の蒲生氏郷が、松阪に領地替えした際に従ったものであるが、後の伊勢商人の多くが日野をルーツとする松阪の商人が多い。氏郷は利休七哲の筆頭と言われる文人であり人徳があったと思われ、商業の振興に理解があったと思われる。
「江戸に多きもの 伊勢屋、稲荷に犬の糞」 といわれ、落語に出てくる商人は、たいがいがケチの伊勢屋ですね。
高俊は気位が高く、商人に馴染まなかったようです。そのため妻の殊法(しゅほう・法号で実名は伝わっていない)が店の切盛りをした。彼女は熱心な仏教徒で、お客を区別せず特にお年寄りや子供を大切にして代金が不足するなら気持ちよく貸した。客から「殊法さんはまるで仏さんだ」といわれたという。八郎兵衛こと高利は、高俊と殊法の四男で末っ子である。
高利は、江戸に出て長兄の利次が開いていた小間物屋に丁稚奉公し、番頭となる。次男は養子にでており、三男の重俊も長男を手伝っていた。のちその商才を恐れた兄達に、松阪に戻されて米を商った。兄二人が亡くなり、高利が再び江戸に出たときは、すでに52歳になっていた。昔の商人なら隠居に入る歳ですね。江戸本町1丁目に「越後屋」(後に三井越後屋ということから、三越と改名)という呉服店を開店した。(現在の日本銀行の新館辺り)
高利は「現銀掛け値なし」という新商法を掲げ、呉服の価格を下げ、また呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆し、切り売りをして庶民の人気を集めた。数十人の仕立人を揃え、即座に仕立てて渡した。これによって、とても繁盛したという。
当時、大きな呉服店は、得意先(大名、武家、大きな商家)に見本を持って行き注文を取る「見世物商い」か、商品を得意先で見てもらう「屋敷売り」をしていた。支払いは、6月と12月の二節季払い、または12月のみの極月払いという掛け売りでした。この方法は、人手も金利もかかるので、当然商品の価格は高く、資金の回転も悪かったのです。庶民を相手にしないといった従来の江戸の呉服商売を覆したのである。母親の経営方針の律義な継承者である高利は、「お客様を区別してはいけない」という教えが骨身にしみていたのである。
延宝4年(1678)秋、高利は二番目の店を江戸本町二丁目に開き、両店とも大変繁盛したため、同業者に恨まれ、迫害を受けるようになった。しかし、側用人牧野成貞の推薦によって幕府の呉服御用達の商人となってからはこうした動きも影を潜めた。江戸の大火(俗にいう八百屋お七火事)によりこの2店を焼失したのを機に、天和3年(1683)に江戸駿河町に「越後屋呉服店」を開店した。
商品の反物は上方から大量に仕入れる。呉服に限らず、酒、菓子など「下り物」が重宝された。(メイドイン関東の商品は「非下り物」で、「下らない」の語源になっている) 支払いの関係で現金を輸送するのは危険です。そこで高利は「為替制度」を思いつく。その為替を扱う店を設けた。「三井両替店」である。後の三井銀行、現在の三井住友銀行に発展している。「三井両替店」は幕府の両替御用達も命じられた。
高利の五十路を過ぎてからの活躍は、六十路で仕事に励む私にとって鼓舞を受けます。彼の商才もさることながら、根底にあるのが、母の信条である「お客さんを区別するな、大切にしなさい」という薫陶の賜物であったのでしょう。
三井越後屋の揺るがない基盤を築いた高利は、元禄7年に亡くなる。享年73歳。
明治期に三井銀行、三井物産、三井鉱山、三越などは三井同族会(11家)によって統轄され、日本の資本主義の確立過程で、国家と深く結びつき、財閥と形成されていったのであるがそれは、後世のことである。
「老舗」は「「為似(しに)せ」のあて字だという。似たように為(す)る、すなわち先祖が始めた商いの経営方針を真似て、忠実に守って店を続けていく、これが「老舗」なのだという。
遠くに富士山が描かれている。この頃の絵は、銭湯の壁絵のように何でも富士山を入れるんだな、と勝手に思っていたら大違いで、当時実際に見えた。(上の画はかなりデフォルメされているが) 江戸時代は、通りの向こうに富士山が見えるように町を造ったのだという。
「三井高利」 (1622~1694)
のちの三井財閥の基礎を築いた人です。高利は諱(いみな)ですから、在世中は「高利さん」とは呼ばない。通称は八郎兵衛です。
三井高利の祖父・高安の代まで近江・六角氏に仕える武士だった。「越後屋」は先祖が「越後守」を名乗っていたのが由来です。高安の子・高俊が武士をやめて商人になり、伊勢松阪で質屋と酒屋を始めた。近江日野の蒲生氏郷が、松阪に領地替えした際に従ったものであるが、後の伊勢商人の多くが日野をルーツとする松阪の商人が多い。氏郷は利休七哲の筆頭と言われる文人であり人徳があったと思われ、商業の振興に理解があったと思われる。
「江戸に多きもの 伊勢屋、稲荷に犬の糞」 といわれ、落語に出てくる商人は、たいがいがケチの伊勢屋ですね。
高俊は気位が高く、商人に馴染まなかったようです。そのため妻の殊法(しゅほう・法号で実名は伝わっていない)が店の切盛りをした。彼女は熱心な仏教徒で、お客を区別せず特にお年寄りや子供を大切にして代金が不足するなら気持ちよく貸した。客から「殊法さんはまるで仏さんだ」といわれたという。八郎兵衛こと高利は、高俊と殊法の四男で末っ子である。
高利は、江戸に出て長兄の利次が開いていた小間物屋に丁稚奉公し、番頭となる。次男は養子にでており、三男の重俊も長男を手伝っていた。のちその商才を恐れた兄達に、松阪に戻されて米を商った。兄二人が亡くなり、高利が再び江戸に出たときは、すでに52歳になっていた。昔の商人なら隠居に入る歳ですね。江戸本町1丁目に「越後屋」(後に三井越後屋ということから、三越と改名)という呉服店を開店した。(現在の日本銀行の新館辺り)
高利は「現銀掛け値なし」という新商法を掲げ、呉服の価格を下げ、また呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆し、切り売りをして庶民の人気を集めた。数十人の仕立人を揃え、即座に仕立てて渡した。これによって、とても繁盛したという。
当時、大きな呉服店は、得意先(大名、武家、大きな商家)に見本を持って行き注文を取る「見世物商い」か、商品を得意先で見てもらう「屋敷売り」をしていた。支払いは、6月と12月の二節季払い、または12月のみの極月払いという掛け売りでした。この方法は、人手も金利もかかるので、当然商品の価格は高く、資金の回転も悪かったのです。庶民を相手にしないといった従来の江戸の呉服商売を覆したのである。母親の経営方針の律義な継承者である高利は、「お客様を区別してはいけない」という教えが骨身にしみていたのである。
延宝4年(1678)秋、高利は二番目の店を江戸本町二丁目に開き、両店とも大変繁盛したため、同業者に恨まれ、迫害を受けるようになった。しかし、側用人牧野成貞の推薦によって幕府の呉服御用達の商人となってからはこうした動きも影を潜めた。江戸の大火(俗にいう八百屋お七火事)によりこの2店を焼失したのを機に、天和3年(1683)に江戸駿河町に「越後屋呉服店」を開店した。
商品の反物は上方から大量に仕入れる。呉服に限らず、酒、菓子など「下り物」が重宝された。(メイドイン関東の商品は「非下り物」で、「下らない」の語源になっている) 支払いの関係で現金を輸送するのは危険です。そこで高利は「為替制度」を思いつく。その為替を扱う店を設けた。「三井両替店」である。後の三井銀行、現在の三井住友銀行に発展している。「三井両替店」は幕府の両替御用達も命じられた。
高利の五十路を過ぎてからの活躍は、六十路で仕事に励む私にとって鼓舞を受けます。彼の商才もさることながら、根底にあるのが、母の信条である「お客さんを区別するな、大切にしなさい」という薫陶の賜物であったのでしょう。
三井越後屋の揺るがない基盤を築いた高利は、元禄7年に亡くなる。享年73歳。
明治期に三井銀行、三井物産、三井鉱山、三越などは三井同族会(11家)によって統轄され、日本の資本主義の確立過程で、国家と深く結びつき、財閥と形成されていったのであるがそれは、後世のことである。
「老舗」は「「為似(しに)せ」のあて字だという。似たように為(す)る、すなわち先祖が始めた商いの経営方針を真似て、忠実に守って店を続けていく、これが「老舗」なのだという。