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お抱え力士について

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 不知火諾右衛門18011854]  第8 代横綱は熊本・細川家お抱え騎士であっ た。  細川家の家紋は、右図のように九曜紋と二つ引両紋があり、不知火の粧回しは、二つ引がデザインされている。今の化粧回しと比べると、ずいぶん地味である。
 
      お抱え力士について
 大名が力士を抱えることは元亀、天正の戦国時代にすでに盛んであった。織田信長、豊臣秀次、その他毛利、大友、長曾我部など、いずれも強豪の力士を召抱えている。
 江戸時代に入って、元禄の頃(五代家光の頃)から勧進相撲が盛んになると諸大名は争って召し抱え、また有望な力士とみればお抱えとした。勧進相撲興行の給付のみによってはなりたちにくい相撲取りの経済生活を補完する不可欠なものであった。
 抱え力士は藩から扶持をもらっていたので、殿様が国表へ帰るときなど供を命じられたこともあって、松江候、阿波候抱えの力士が全部休場したこともある。それゆえ、相撲頭取は諸藩の屋敷へ伺候して「此度場所興行に就きまして恐れ入り奉る次第なれど、何卒貴家様の力士を拝借したく」と願い出て、本場所を行ったという。
 番付は大名の国名を記した。たとえば「雲州 雷電為右衛門」というぐあいである。雷電は信州出身ながら、出雲・松江藩お抱えである。
 ちなみに江戸初期から中期の頃のほうが待遇がよく、5人扶持50俵、8人扶持70俵などの記録もあるが、寛政頃からは2人扶持14俵が通例であったという。(1人扶持につき一日5合で、一俵は約60キロ)。その扶持は足軽並みであったが、身分は士分であり帯刀することができる。百姓、町人出身者の多い相撲取りにとっては名誉なことであった。力士は現役を引くと抱えをとかれて年寄りとなったが、雷電のように松江藩に留まった例もある。これは松江藩抱えの力士が多いこともあって、彼は弟子の育成や、彼らを率いて諸方での興行に従事している。

 お抱え力士に対する大名家の熱狂ぶりのエピソードを紹介しよう。
 安政6年(1859)肥後細川家の抱え力士・不知火と阿波蜂須賀家抱えの紅ヶ嶽の取組みで、不知火は一気に寄り立てると紅ヶ嶽必死に残って右に打っ棄った。軍配は不知火有利とみて不知火に軍配が挙がったが、阿波藩士が物言いをつけその結果、預かりということになった。そうなると細川藩士が怒った。「いやしくも不知火が勝ちとして軍配が挙がったのに預かりとするのは何事か。我らは単なる相撲見物に来ているのではない。帰って主人に何と申し開きできようか。潔くこの場所で切腹いたす」見物人はヤンヤの喝采である。会所の年寄達が土下座して急場をしのいだという。
 慶応3年(1867)蜂須賀家抱えの千羽ヶ嶽と鳥取・池田家抱え国見山の取組みにおいて国見山が捨て身の首投げを打った。千羽ヶ嶽はもんどり倒れたが国見山の足はすでに土俵外にあった。行司はしばらくためらった後に千羽ヶ嶽に軍配を挙げた。これがこの日見物に来ていた蜂須賀の殿さんの気に障った。
 「いやしくもこんな疎漏な行司では、我が藩の力士は取組ませるせることは出来ん。一同引き揚げる」と客が楽しみにしていた大関・鬼面山と小柳(両人は阿波藩お抱え)を連れ帰ってしまった。その場所は阿波侯にいくら謝っても阿波家抱えの力士は出場できなかったという。扶持をいただいているから、建前は家来であり、殿様の命は絶対である。
 実際、抱え藩主たちの熱狂ぶりはすさまじく。回向院の門前に馬をつないでおいて、一々その勝負を屋敷に報告させていたという。タニマチになってくれるのはありがたいが、勝負にまで介入されてきたらたまらないですね。
 ちなみに後援者のことをいうタニマチは、大坂谷町に相撲が大好きな気前のいい医者がいたことに由来する。
 
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