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Channel: 勢蔵の世界
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細川氏のこと

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落語「井戸の茶碗」「竹の水仙」に、骨董好きの殿様として熊本の領主・細川越中守が登場する。越中守は代々熊本城主が襲名していた。ということで、細川家のことを述べたい。
細川氏は、多くの大名の中でも、鎌倉、室町から江戸、現代まで名門として続いた希有な家である。細川一族の歴史は古く、遠く足利尊氏に仕えて名が世に出る。鎌倉時代に三河国細川郷(現在の岡崎市細川町)に土着したことに由来する。3年ほど前に細川氏発祥の地とされる「細川城」を訪れたことがあるが、石碑が建つのみで、むろん遺構などはない。
 
細川藤孝(幽斉)は、武人でありながら、歌道の古今伝授の継承者であり、当時の京都文化を代表する存在だった。同じ教養人であった明智光秀の親友であり、光秀の娘は幽斉の嫡子・忠興の嫁だった。軍事的には細川氏は光秀の組下であったが、本能寺の変では光秀に味方せず、光秀の目算が大きく狂うこととなった。
忠興(三斎)は、茶では利休七哲のひとりにかぞえられる。ほかに兜のデザインという特技があった。あるとき、さる大名から頼まれた兜に長大な水牛の角をつけた。本物の角は使わず、軽くするために桐材を使い漆で処理した。「折れないか」と依頼者が言った。それが忠興の癇にさわった。戦場では木の枝にひっかかるときもありうる、と言い「そのときは、やすやす折れたほうがいい。もっともお手前が、角が折れるばかりにお働きなさるかどうかは、別のはなしですが」と言って兜は渡さなかったという。
3代・忠利が、肥後熊本54万石の初代です。絶家した肥後国主の家祖・加藤清正の霊を、あつく祀って肥後の人信を得た。また名声が大きすぎてどの大名家も召抱えることをためらった宮本武蔵を客分として招き、御(ぎょ)しがたい武蔵の心を捉えた。忠利自身も武芸に熱心で、柳生宗矩に師事し、大名であって柳生新陰流の代表的な剣士の一人であった。
 
末裔の18代(細川藤孝を初代とする)細川護熙(もりひろ)氏は、熊本県知事を務めた後日本新党を結成し、平成5年に内閣総理大臣となり非自民党連立政権を成立させたことは記憶に新しい。
護熙氏の父親の17護貞(もりさだ)氏は、近衛文麿首相の秘書官を務め、戦時中の『細川日記』は、良質な語り手であることをつづけている。
 
護熙氏の祖父16代・護立(もりたつ)氏は「美術の殿様」といわれ、細川家伝来の多数の美術品や自らの収集品などを収蔵した財団法人永青文庫を開設している。利休や三斎(2代・忠興)の茶杓、長次郎作の黒楽茶碗、三斎が使っていた高麗の粉引、いかにも日常雑器に見える利休や三斎が使っていたという柿の蔕という名茶碗が収蔵されている。膨大な手紙や記録、掛け軸や書画も豊富であり一度訪れたいと思っている。
明治の末、志賀直哉や武者小路実篤ら学習院仲間が刊行した同人誌『白樺』が大正期の文学・美術に果たした功績は実に大きい。この雑誌の毎号の赤字補填人が誰だったかは謎とされていたが、実は彼らと同窓だった護立氏の陰徳だったことが戦後しばらくしてわかった。彼は美術の鑑賞と鑑定に卓越していて、美術商の仲間ではその眼力の高さが神秘的なほどに評価されていたという。落語の骨董好きの殿様の末裔にふさわしい。
 
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