「鏡」は金偏が金属(銅で作られていました)を表し、つくりが音とともに影を意味します。語源は、影(姿、かたち)を映して見る意味の影見(かげみ)の変化のようです。漢字には鏡と鑑の二通りがあります。鑑(かんが)みるとは、鏡や水などに映してみることから、手本、先例などとくらべ合せて考えるという意味になりました。
鏡について、とりとめのないことを並べてみます。
「鏡物」とは、歴史物語の総称のことですね。「大鏡」「今鏡」「水鏡」「増鏡」「吾妻鏡」などがあります。
鏡餅は、形が丸い鏡のようなので鏡餅と言うのだそうです。源氏物語の初音、栄花物語、紫式部日記には、餅鏡と出てきますが、いつのまにか鏡餅と変化したようです。
鏡開きの風習は、室町時代から行われていたようです。1月20日に行ったようですが、徳川家光の月忌日だったので、11日に変更され、現在に至っています。
「破鏡の嘆」という言葉があります。夫婦が離縁をすること。離れて暮らさなければならなくなった夫婦が、鏡を割ってそれぞれの一片を持ち、愛情の証としたが、妻が不貞をしたために、その一片が鵲(かささぎ)となって夫の所へ舞い戻り、不貞が知れて離縁となった。出典は『神異経』前漢代の東方朔の著とされるが、「つつがない」などの言葉もこの本から出ました。
泉鏡花という小説家がいました。若く美しいままの母を幼少期に失った彼は、美をそして美しい女を聖なるもの至上のものとして生涯描き続けます。ペンネームは「鏡花水月」という言葉からです。鏡の中の花、水に映る月、美しいが、それを手中にはできないといった意味を持つ。
余談ながら彼は有名な潔癖症で、お辞儀をするとき、畳に触るのは汚いと手の甲を畳につけていた。手元にいつでもちんちんと鳴る鉄瓶があって煮沸消毒できるようになっていないと不安がったという。
「明鏡止水」(出典:荘子)は、心にわだかまりがなく、ありのままに物事をとらえる心のこと、落ち着いた心持ちのこと。
宇野宗佑・総理大臣が就任後2ヵ月余りで選挙の責任をとって退陣したとき、「明鏡止水の心境」とコメントしました。そうした時には「慙愧に耐えない」あるいは「痛恨の極み」、「断腸の思い」と述べたほうが心情に近いのでは?と思いましたね。
↑女湯での喧嘩を描いた浮世絵です。陰毛を描けばいやらしくなりますがうまく描いています。ここでは拡大できませんが、一人一人の動き、表情が実にいい。さて、左上を見ていただきたい。湯気が外部に逃げるのを防ぐために浴室への入口を低くしてあります。これを「柘榴(ざくろ)口」と呼びます。「屈み入る」ということから「鏡鋳る」をかけた洒落から生まれました。「鏡鋳る」というのは、(銅の)鏡を磨くことで、その際に用いるのがザクロの実でした。
江戸川柳に、「抱いた児をふたにして出る柘榴口」という句があります。柘榴口を出る際、子供を抱いていると前を隠すことが出来ない。そこで子供を前にぶら下げて隠すという意味ですね。「湯へはいる赤子故郷のふたにされ」というバレ句は、柘榴口がわかってないと笑えない。
仏教では「浄玻璃(じょうはり)の鏡」というのがあります。亡くなってあの世に行く前に誰もが一度は浄玻璃の鏡の前に立つんだそうです。すると生まれてから死ぬまでの間の人に与えた喜びと、人に与えた悲しみが走馬灯のように一瞬にしてその鏡の中に再現されるという。
どんな財産も社会的地位も自分の体もあの世には持って行けない。持っていけるのは知らず知らずに人の心に与えた喜びと悲しみだけ。人に与えた悲しみが多ければ身もだえするような苦しさとなり、その状態を地獄という。人に与えた喜びが多ければうれしくて楽しくて仕方なくなる。それを天国という。
人に喜んでもらうことこそが、今生の我々の使命なのだと思う。