左・掲載された挿絵、 中・セオドア・ルーズベルト 右・ラシュモア山(サウスダコタ州)の四人の大統領の彫像 (左から右へ)ジョージ・ワシントン, トーマス・ジェファーソン, セオドア・ルーズベルト, エイブラハム・リンカーン (フリー百科事典『ウィキペディア』より拝借)
「テディベア」
1902年の秋、セオドア・ルーズベルト大統領は、ミシシッピ州へ趣味である狩猟に出掛けたが、獲物を仕留めることができなかった。そこで同行していたハンターが気を使い、傷を負った子熊を追いつめて最後の一発を大統領に頼んだが、彼は「瀕死の熊を撃つのはスポーツマン精神にもとる」として撃たなかった。このことが美談として同行していた記者によってワシントンポスト紙に掲載された。(上の図)
「テディベア」
1902年の秋、セオドア・ルーズベルト大統領は、ミシシッピ州へ趣味である狩猟に出掛けたが、獲物を仕留めることができなかった。そこで同行していたハンターが気を使い、傷を負った子熊を追いつめて最後の一発を大統領に頼んだが、彼は「瀕死の熊を撃つのはスポーツマン精神にもとる」として撃たなかった。このことが美談として同行していた記者によってワシントンポスト紙に掲載された。(上の図)
この漫画はタイトル『ミシシッピで一線を画す』として、ルイジアナ州とミシシッピ州の州境論争を解決しようというルーズベルトの試みを暗示したものだという。
その漫画をみたニューヨーク州の雑貨屋モリス・ミットム(ロシアからの移民)が、大統領に「名前を使わして欲しい」とお伺いをたてたところ、大統領は快諾。妻ローズの作ったくまのぬいぐるみを作り、大統領のニックネームである「テディ」にちなんで「テディベア」というラベルをつけて自分の店で販売したところ大当たりしました。それがテディベアの由来になったと伝えられています。ルーズベルト大統領本人も、とてもテディベアを気に入り、選挙戦のマスコットにするなど、自分のイメージキャラクターにしていたようです。
セオドア・ルーズベルトの誕生日である10月27日が「テディベアの日」と言われているのは、愛好家たちが設定している記念日である。日本では日本テディベア協会がルーズベルトの逸話にちなみ「相手の事を思いやる気持ち」を、ベアを通して伝える日にしようと提唱している。]
日本人にはセオドア・ルーズベルト大統領は、日露戦争を終らせ、ポーツマス条約が結ばれたことで知られていますね。この和平交渉の斡旋によって彼は1906年ノーベル平和賞を受賞しています。とはいえ、彼は海軍力を盾にカリブ海政策を推し進めた(棍棒外交という)強烈な帝国主義者でした。親日家と知られ、忠臣蔵の英語訳本『47ローニン』、新渡戸稲造の『武士道』などを愛読し、柔道もならっています。もっとも日露戦争後は、日本脅威論者となって、いわゆる排日移民法の端緒も彼の時代です。
日本人にはセオドア・ルーズベルト大統領は、日露戦争を終らせ、ポーツマス条約が結ばれたことで知られていますね。この和平交渉の斡旋によって彼は1906年ノーベル平和賞を受賞しています。とはいえ、彼は海軍力を盾にカリブ海政策を推し進めた(棍棒外交という)強烈な帝国主義者でした。親日家と知られ、忠臣蔵の英語訳本『47ローニン』、新渡戸稲造の『武士道』などを愛読し、柔道もならっています。もっとも日露戦争後は、日本脅威論者となって、いわゆる排日移民法の端緒も彼の時代です。
彼は歴代アメリカ合衆国大統領のランキングで、現在でも偉大な大統領の一人として格付けされる。