歌川広重 東海道五拾三次 赤阪 旅舎招婦ノ図
赤坂(東三河)は招婦(遊女)が多かったという。参勤交代の武士たちがここに宿泊することが楽しみだったことを謡ったものに「御油に赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い」 御油と赤坂の区間は、わずか二キロメートル弱という東海道中で一番短い旅程。
左から風呂から上がって来た客、煙管を手に寝転がりくつろいだ様子の客。あんまと膳を運ぶ女性、前景の中央には大きな蘇鉄、化粧をする旅籠の飯盛女(遊女)たちなど、あわただしい人々の様子がユーモラスに描かれています。この旅籠「大橋屋」は今でも残っていて、旧屋号を鯉屋といい、正徳六年(1716)の建築といわれる。赤坂宿では、大旅籠に属する。蘇鉄は明治になって隣の浄泉寺に移されたという。
江戸時代の旅の値段
今も昔も、「たまには旅をしてみたい」という気持ちは変わりない。昔は鉄道も車もないから、ひたすら歩くしかない。江戸後期には宿場が整備され、旅籠(はたご)も増えたこともあって、旅を楽しむ人が多くなっている。信仰を口実にした物見遊山の旅だったといっていい。
旅人は大体1日10里ぐらい歩いたから朝は早い。 「♪ お江戸日本橋七つ立ち~」 という唄があるが、日本橋に限らず、旅人は七つに宿を出立した。日の出が六つだから、七つというのは午前四時頃で、歩いているとしだいに明るくなってくる。
若い頃に旧中山道を、妻籠から馬籠を経て中津川まで、4里あまり歩いたことがあるが、(それも2日にかけて)疲労こんぱい、ヘトヘトになった。江戸から京都まで、125里余りを13〜14日の日程で歩いたというから昔の人は健脚だった。
武州荏原郡喜多見(現・世田谷区)の国四郎(百姓)が伊勢に出かけた。弘化2年(1845)1月22日出発、伊勢参りのあと大阪、宮島、岩国、京都、琵琶湖等を見物して4月20日に帰った。その旅費が5両2分。1両を10万円とすると、55万円くらいか。宿代をはじめ、昼食代や茶屋での団子代、芝居見物や土産代などすべて含む。
まず、最初の六郷の渡しが15文、川崎で草鞋(わらじ)一足20文、一泊目が戸塚宿で200文という具合である。寛政末で1両6貫台だから(1貫 =1000文)1文17円として旅籠代の200文は(1両を10万円とすると)3400円くらいか。ちなみに飯盛り女の相場は200文~300文。
旅籠は売店がない代わりに宿に物売りが来る。前髪(少年)がお煙草入りませんか?楊枝(ようじ、ハブラシの事)歯磨き(歯磨き砂)お鼻紙はいりませんか?別の物売りが白酒あがりませんか?焼酎は要りませんか?(脚に吹きかけ疲れを取る事もする)それに座頭の按摩が来る、瞽女(ごぜ・女性の盲人芸能者)が三味線を鳴らして伊勢音頭を唄う・・・と賑やかだったらしい。
旅籠(はたご)というのは、もともとは旅をするときに馬の飼料を入れた籠のことだった。宿が馬の飼料を用意して迎えたことからによる。さらに安い宿が木賃宿で、旅人が米を持参し、その米を炊くための木賃(薪代)を払って泊めてもらう宿で江戸前期には、この木賃宿が一般的だった。
国四郎のような長旅はめずらしく、普通は江戸からだと、成田、江の島、鎌倉、箱根七湯など5~6日の旅が多かった。これなら一両もあれば充分に贅沢な旅を楽しめた。安政年間に江戸から江の島詣でに出かけ、6泊して5人分の総費用が4両2分2朱だったという記録もある。普通なら保土ヶ谷宿か戸塚宿まで歩いて一日目の泊まりとするのに、品川宿に泊っているし、帰路も品川宿で一泊している。それだけ遊びの要素が強かったといえる。
江戸庶民にとって、旅はあこがれだったが、天災や病気、強盗などの危険もあって、不安も大きい。しかしその不安を忘れるほど楽しみが大きく、金を貯めてなんとかして旅にでようとしたのである。
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年末は仕事が多忙なことと、資料漁りのために、勝手ながら今回、今年最後のブログ掲載とさせていただきます。
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