歌川国安「駱駝之図」 海のむこうからやってきた動物は、開帳の神仏を拝むのと同じように、厄払いになるとか、疫病などの悪病がさけられると考えられていました。霊験あらたかなものだとする信仰があったようです。動物見世物を描いた錦絵や引札(広告)に記される文言は、一様に珍しい動物を見ることで得られる「ご利益」をうたっています。
「この絵を家内にはりおく時は悪事災難きたらず、冨貴繁盛して子孫長久なるべし」とあり、まあここまではいいが、「彼が小便はひゑしつ(冷性)、はれ病に付けて妙薬なり。毛はほうそう(疱瘡)のまじなひとなり、悪魔よけになる」とあるには、噴き出してしまいます。実際に見世物小屋で小便や糞、毛が売られていたという。信仰と同じで信じる者は救われます。 ラクダを連れた男たちは唐人風俗をしています。この唐人の格好で異国の楽器を持つ男たちは、もちろん日本人です。こんな格好をしているのは、海外から渡来したラクダというイメージに服装をあわせているのと、唐人趣味が文政のこの時期に非常に流行っていたためです。見世物絵に登場する海外から来た動物たちは、しばしば舶来趣味、唐人趣味に彩られ、「西方の霊獣」や「天竺舶来の霊獣」といったうたい文句がつけられました。
「この絵を家内にはりおく時は悪事災難きたらず、冨貴繁盛して子孫長久なるべし」とあり、まあここまではいいが、「彼が小便はひゑしつ(冷性)、はれ病に付けて妙薬なり。毛はほうそう(疱瘡)のまじなひとなり、悪魔よけになる」とあるには、噴き出してしまいます。実際に見世物小屋で小便や糞、毛が売られていたという。信仰と同じで信じる者は救われます。 ラクダを連れた男たちは唐人風俗をしています。この唐人の格好で異国の楽器を持つ男たちは、もちろん日本人です。こんな格好をしているのは、海外から渡来したラクダというイメージに服装をあわせているのと、唐人趣味が文政のこの時期に非常に流行っていたためです。見世物絵に登場する海外から来た動物たちは、しばしば舶来趣味、唐人趣味に彩られ、「西方の霊獣」や「天竺舶来の霊獣」といったうたい文句がつけられました。
「駱駝(ラクダ)の見世物」
駱駝は文政4年(1821)オランダ人によって長崎に上陸した。オスが5歳、メスが4歳の二頭であった。オランダ人は将軍家に献上するつもりであったが、公儀から「無用」との返事で、駱駝は行き場を失い、蘭人は馴染みになった長崎丸山の遊女に、その駱駝を呉れてしまった。その遊女を請け出した男があったが、親から勘当されて、女と駱駝二頭を連れて大坂にやって来た。そこで香具師に千両で売り渡した。今の金なら一億円ぐらいの金であるからすごい。それから西日本各地を巡業して、木曽路経由で江戸に入ったのが文政7年だから、日本に来てから丸3年が経っていた。
シビアな大坂では24文でも高すぎると敬遠されたのに、両国広小路での見世物は32文の木戸銭で、超満員の大当たり。 駱駝ぐらいでと笑ってはいけません。コアラが日本来た時は動物園に長蛇の列が出来たし、パンダの来園時の喧騒もまたしかり。いつの時代も新しい動物が日本にやって来ると、見たくなるのは同じ事です。駱駝が珍獣でなくなるのは、明治15年3月に上野動物園が開園してからであった。
駱駝は文政4年(1821)オランダ人によって長崎に上陸した。オスが5歳、メスが4歳の二頭であった。オランダ人は将軍家に献上するつもりであったが、公儀から「無用」との返事で、駱駝は行き場を失い、蘭人は馴染みになった長崎丸山の遊女に、その駱駝を呉れてしまった。その遊女を請け出した男があったが、親から勘当されて、女と駱駝二頭を連れて大坂にやって来た。そこで香具師に千両で売り渡した。今の金なら一億円ぐらいの金であるからすごい。それから西日本各地を巡業して、木曽路経由で江戸に入ったのが文政7年だから、日本に来てから丸3年が経っていた。
シビアな大坂では24文でも高すぎると敬遠されたのに、両国広小路での見世物は32文の木戸銭で、超満員の大当たり。 駱駝ぐらいでと笑ってはいけません。コアラが日本来た時は動物園に長蛇の列が出来たし、パンダの来園時の喧騒もまたしかり。いつの時代も新しい動物が日本にやって来ると、見たくなるのは同じ事です。駱駝が珍獣でなくなるのは、明治15年3月に上野動物園が開園してからであった。
双紙や錦絵はもとより、らくだ節という流行唄までつくられた。
新内節の替え歌に、
「天竺離れてこの国へ、来たはおととし春のこと、献上の身となりもせで、つらい山師の手にかかり、武蔵の果ての両国や、日には幾度も引き出され、らくだどころか苦の世界」
新内節の替え歌に、
「天竺離れてこの国へ、来たはおととし春のこと、献上の身となりもせで、つらい山師の手にかかり、武蔵の果ての両国や、日には幾度も引き出され、らくだどころか苦の世界」
ペアのらくだの見世物が出てから、上方では夫婦が仲良く連れだって歩く者を「ラクダ」とよんで嘲笑するようになった。江戸ことばでは、なりばかり大きくて鈍な者を「ラクダ」とよんで嘲弄することが流行ったそうです。
そういえば「らくだ」という落語があります。ラクダの見世物のあとつくられらのでしょう。らくだとよばれるどうしようもない男が、ふぐに当たって死んだところから噺は始まるのですが、らくだの葬式を出してやろうとするゴロツキの兄弟分と紙屑屋のやりとりが滑稽です。亡くなった男のあだ名が「らくだ」だった。らくだの兄弟分が紙屑屋を脅して死骸を背負わせ、通夜の酒・肴を出し渋る大家に乗り込んで、かんかん踊りを踊らせるシーンが、この噺のクライマックスになっています。