近江商人のことを調べていて、以下の話をネットから拾いました。中学生のときにこの話を読み(もちろん名前まで記憶はありませんが)強く印象に残っていたので、紹介します。
川島又兵衛は、近江(滋賀県)・神崎郡川並村の出身で、天保年間の人である。東北や関東地方に行商した。屋号を大二(おおに)と称し、若い頃から忍耐強く、商利を見て進むことが早く強かったので、屋号をもじって鬼又(おにまた)と呼ばれたほどの者であり、後にはひとかどの豪商となったという。
中山道の碓井峠を連れの商人と二人で、それぞれ10貫目(37.5キロ)ほどの荷を担いで越えたときの話です。碓氷峠は、信州(長野県)軽井沢と上州(群馬県)松井田の境にある標高960メートルの峠です。
中山道の碓井峠を連れの商人と二人で、それぞれ10貫目(37.5キロ)ほどの荷を担いで越えたときの話です。碓氷峠は、信州(長野県)軽井沢と上州(群馬県)松井田の境にある標高960メートルの峠です。
時は夏の盛りの土用の頃であった。信州側へ向けて宿を出立して山道を登り始めたのは、涼風が吹き、見事な景色をめでる余裕のある早朝であったが、ようよう山腹にたどりついて一服した時分には、日も昇り酷暑となっていた。
連れの商人は、荷を降ろすやいなや、喘ぎながら嘆息して思わず泣き言をもらした。
「浮世の渡世には様々あるとは言いながら、真夏にもかかわらずこんな険しい山道を重荷担いで峠越えする苦労を考えると、いっそのこと鋤と鍬をもって田畑を耕す農事に戻ったほうがましだ」
と、自分の選んだ境涯をぐちった。この言を聞くやいなや又兵衛は、
「私もお前さんと同じように嘆息している。けれどもそれは逆の意味である。私はこのような難所のある山が五つも六つもあれば、大きな商利が得られるであろう。なぜなら、この位の山がわずか一つあってさえ商人をやめて百姓になりたいと願う人が出るのだから、険しい山がもっとたくさんあれば、信州へ入って商売しようとする競争相手はいないであろうにと、山の少ないのを残念に思うからである」
又兵衛のこの発言を聞いた連れの商人は、無益な愚痴をこぼしたことを反省し、この一言で心の迷いが吹っ切れたと感謝したのである。以後彼は、商いに専心するようになり、商人として大成したという。
連れの商人は、荷を降ろすやいなや、喘ぎながら嘆息して思わず泣き言をもらした。
「浮世の渡世には様々あるとは言いながら、真夏にもかかわらずこんな険しい山道を重荷担いで峠越えする苦労を考えると、いっそのこと鋤と鍬をもって田畑を耕す農事に戻ったほうがましだ」
と、自分の選んだ境涯をぐちった。この言を聞くやいなや又兵衛は、
「私もお前さんと同じように嘆息している。けれどもそれは逆の意味である。私はこのような難所のある山が五つも六つもあれば、大きな商利が得られるであろう。なぜなら、この位の山がわずか一つあってさえ商人をやめて百姓になりたいと願う人が出るのだから、険しい山がもっとたくさんあれば、信州へ入って商売しようとする競争相手はいないであろうにと、山の少ないのを残念に思うからである」
又兵衛のこの発言を聞いた連れの商人は、無益な愚痴をこぼしたことを反省し、この一言で心の迷いが吹っ切れたと感謝したのである。以後彼は、商いに専心するようになり、商人として大成したという。
以上をコピーさせていただきました。
峠を行き交う商人にとって険しさの条件は同じなれど、「難所がもっとあればいいのに」と願う発想は、出来るものではありません。川島又兵衛の足取りは他の商人より軽かったに違いない。「苦労」は、何とひとりよがりで、主観的な言葉であるかがわかるというものです。もう一話、近江商人の話にお付きあいください。
「ワコール」創業者の塚本幸一氏(1920~1998)は、大正9年繊維問屋を営む粂次郎と信の長男として仙台市に生まれた。両親共近江出身。長じて五箇荘の本家に引き取られて滋賀県立八幡商業学校を卒業。兵役まで家業を手伝う。インパール作戦に従軍するが生還。
昭和21年に和江商事創設。アクセサリー販売を行う。昭和24年に京都百貨見本市でブラジャーを出品。昭和32年に社名をワコールへ変更。和江(江州に和する)の名を永遠に留めようと「和江留=ワコール」にしたという。
特筆すべきは、苛酷なインパール作戦に従軍したことです。彼は次のように語っている。「人間がひとつの経験をすることによって、その後の人生が決まることを原点というなら、私にとっての原点は大東亜戦争です。食料も弾薬も尽き、部隊は敗走に次ぐ敗走の日々、戦死、病死、自殺、ゲリラや土民に殺される者、毎日、櫛の歯が抜けるように戦友たちが死んでいった。私が最も強く思ったのは、自分は生きているのではない。天命によって生かされているのだ。私のこれからの人生は死んだ52人の戦友に代わって、世の中のために生きていくことだ」
彼はブラジャーを普及させたとして「日本のブラジャーの父」と呼ばれる。←(ブラジャーを普及させたのは事実ですが、私が笑いをとろうと名付けただけです)