$ 0 0 「九条師輔の言葉」 人に会いて言語多く語らふことなかれ。また人の行事を言ふことなかれ。ただその思ふところと兼ねて触るることとを陳(の)べ、世の人のことを言ふべからず。人の災いは口より出ず。努々(ゆめゆめ)慎み慎め。 (『九条右丞相遺誡』) 「人の前で自説を多く語るな、人の行為について語るな、自分の思う事は言葉少なに述べよ、人の評価を口にするな、口は災いの元だ」 九条師輔が対人関係にいかに慎重であったかが、如実にうかがわれる。彼は右大臣の地位に甘んじて終生村上天皇を補佐し、摂関家繁栄の礎を築いた人である。彼が子孫に遺した教訓は、現代の我々の人間関係にもそっくり生かすことができると思います。日本的処世訓の典型でもある名言といえる。 凡そ人のためには恭敬の儀を致して、慢逸の心を生ずることなかれ。衆に交るの間、その心を用ゐること、或は公家と王卿たるにもあれ、殊ならむ謗(そしり)に非ずといへども、善からざることを言ふの輩(ともがら)は、然るごときの間も必ずしも座を避けて却(しりぞ)き去れ。 (『九条右丞相遺誡』) 「人に対しては尊敬の態度を失うな、慢心するな、皇族、天皇であっても人の悪口を言う者に対してはその座を立ち退け」 と述べている。 自分が言わなくても、その座にいればその発言を肯定したことになるという徹底した姿勢の所産である。世の中は、人の悪口に相槌をうちながら、後で誰それがこう言っていたと、事細かく報告する人が多いですからご用心。 自己を控えめにして、人の悪口は言わず、相手を尊敬する態度を崩さない、これが対人関係円満の基本でしょうね。 九条師輔(もろすけ・906~60) 平安中期の公卿。忠平の子。947年右大臣・正二位に進む。有職故実に詳しく師輔の儀式作法の集大成したものが「九条年中行事」である。「九条右丞相遺戒」とともに有職故実の九条流の祖となるべきものであった。兄・実頼に対して自分が父の作法の継承者という誇りが見られる。師輔は摂関には成らなかったが、人柄の良さから人望があった。娘安子は村上天皇の中宮となり、冷泉・円融天皇の母となり外戚の基を開き、子の兼通・兼家、孫の道長の摂関を相承する基礎となった。 天慶3年(940)に平将門が乱を起こした時、藤原忠文(藤原式家)が征東大将軍に任じられたが、関東に到着する前に乱は平定されてしまった。朝廷では功が論じられ、兄の実頼(大納言)は、忠文には功がないのだから賞すべきではないと主張した。これに対して、師輔は「罪の疑わしきは軽きに従い、賞の疑わしさは重きをみるべきだ。忠文は命を受けて京を出立したのだから、賞すべきである」と論じた。世論は師輔こそが長者の発言であるとしたが、忠文は恩賞を得られなかった。947年6月に忠文が没すると、同年10月に実頼の娘が、11月には実頼の長男が相次いで死去したために、忠文の怨霊が実頼の子孫に祟ったと噂されたという。 師輔はむろん藤原氏だが、当時は公卿などの名を屋敷のある地名(九条)を冠した別称で呼ばれた。時代が下って木曽義仲が洛中にあったとき、前権中納言・藤原光隆の屋敷は、猫間というところにあったから、「猫間中納言」と呼ばれていた。ある日、猫間中納言が義仲のもとへ訪れた時、これを知らぬ義仲は、「なに、都では猫が人に会いに来るのか」といった逸話がある。 http://history.blogmura.com/←にほんブログ村歴史ブログ