田園の中を、車を走らせていて、たわわに実った稲の穂が頭を垂れていた。
みのるほど頭を垂れる稲穂かな
ということわざを思い浮かべた。道歌といっていいでしょう。本当に人格の高い人は腰が低く、いばらないものだというもの。商売柄、何人かのスーパーのオーナーを知っているが、苦労されているから概して腰は低い。私もかくありたいものだと敬する人もいる。が、従業員におおへいで尊大な人がいる。オーナーと個人的に飲んでも従業員の悪口は言ってはならない。まわり回って自分の身に返ってくる。
道歌には短歌が多く、前に気に入った句を載せたことがあるが、5・7・5の長さのものを探してみました。思ったほど多くはない。
みのるほど頭を垂れる稲穂かな
ということわざを思い浮かべた。道歌といっていいでしょう。本当に人格の高い人は腰が低く、いばらないものだというもの。商売柄、何人かのスーパーのオーナーを知っているが、苦労されているから概して腰は低い。私もかくありたいものだと敬する人もいる。が、従業員におおへいで尊大な人がいる。オーナーと個人的に飲んでも従業員の悪口は言ってはならない。まわり回って自分の身に返ってくる。
道歌には短歌が多く、前に気に入った句を載せたことがあるが、5・7・5の長さのものを探してみました。思ったほど多くはない。
手習いは坂に車を押すごとし
このうしろに「油断をすればあとへもどるぞ」と付くこともある。学問や稽古事は少しでも油断をすると,もとに戻ってしまうことのたとえ。
バレリーナの森下洋子さんに次の言葉があります。「私は、毎日、二時間のレッスンをやっています。一日、基本レッスンを怠ると、自分の体が不調になるのが分かります。二日怠ると、パートナーに分かります。そして、三日怠ると、多くの人に分かります」
このうしろに「油断をすればあとへもどるぞ」と付くこともある。学問や稽古事は少しでも油断をすると,もとに戻ってしまうことのたとえ。
バレリーナの森下洋子さんに次の言葉があります。「私は、毎日、二時間のレッスンをやっています。一日、基本レッスンを怠ると、自分の体が不調になるのが分かります。二日怠ると、パートナーに分かります。そして、三日怠ると、多くの人に分かります」
いつまでもあると思うな親と金
よく知られています。医学の進歩によっていつまでも親は丈夫じゃないか、と思いきや亡くなって親のありがたみがわかりました。「孝行のしたいときには親はなし」というが、ああしてやればよかった、こうしてやればよかったと悔いるばかりです。この句には続きがあるんだそうです。「・・・・いつまでもないと思うな運と災難 人の行く裏に道あり花の山」なんだそうです。なるほどと思いました。
よく知られています。医学の進歩によっていつまでも親は丈夫じゃないか、と思いきや亡くなって親のありがたみがわかりました。「孝行のしたいときには親はなし」というが、ああしてやればよかった、こうしてやればよかったと悔いるばかりです。この句には続きがあるんだそうです。「・・・・いつまでもないと思うな運と災難 人の行く裏に道あり花の山」なんだそうです。なるほどと思いました。
飛び出すぞ子どもは急に止まれない
歩行者向けの標語「飛びだすな車は急に止まれない」から、派生したものであろうが、ドライバーが狭い路地を走る時に「飛び出すぞ」と、常に意識しておれば、未然に事故を防ぐことができるという標語で、教訓歌としての出来はむしろ上ですね。
歩行者向けの標語「飛びだすな車は急に止まれない」から、派生したものであろうが、ドライバーが狭い路地を走る時に「飛び出すぞ」と、常に意識しておれば、未然に事故を防ぐことができるという標語で、教訓歌としての出来はむしろ上ですね。
物言へば唇寒し秋の風
芭蕉の俳句だが、「余計なことを言えば災いをまねく」の意味でことわざとして用いられている。
もともと「座右の銘、人の短をいふ事なかれ、己が長をとく事なかれ」という前書きがあり、教訓的な響きはあるが、句自体は、人の欠点の話や自慢話をするときのむなしい気持ちを詠んだもので、べつに「災いをまねく」とは言っていない。
芭蕉の俳句だが、「余計なことを言えば災いをまねく」の意味でことわざとして用いられている。
もともと「座右の銘、人の短をいふ事なかれ、己が長をとく事なかれ」という前書きがあり、教訓的な響きはあるが、句自体は、人の欠点の話や自慢話をするときのむなしい気持ちを詠んだもので、べつに「災いをまねく」とは言っていない。
世の中は三日見ぬ間に桜かな
大島蓼太(りょうた・江戸中期の俳人)の句で、3日ほど外出しないでいたら、もう世の中は桜の季節で花見気分になっている―。それが本来の意味だが、「見ぬ間に」が「見ぬ間の」と言いならわされ、時の移り変わりの速いことに例えることわざのように使われる。
「三日見ぬ間に」→『世の中の桜というものは、三日たてばウソのように咲き誇るものだ』
「三日見ぬ間の」→『世の中というものは、桜が咲くとき散るときと同じように、たった三日でコロッと状況が変わるものだ』
要するに、「に」では桜に眼目があり、「の」では世の中に眼目があることになるんだそうです。日本語は難解ですな。
大島蓼太(りょうた・江戸中期の俳人)の句で、3日ほど外出しないでいたら、もう世の中は桜の季節で花見気分になっている―。それが本来の意味だが、「見ぬ間に」が「見ぬ間の」と言いならわされ、時の移り変わりの速いことに例えることわざのように使われる。
「三日見ぬ間に」→『世の中の桜というものは、三日たてばウソのように咲き誇るものだ』
「三日見ぬ間の」→『世の中というものは、桜が咲くとき散るときと同じように、たった三日でコロッと状況が変わるものだ』
要するに、「に」では桜に眼目があり、「の」では世の中に眼目があることになるんだそうです。日本語は難解ですな。
あの声で蜥蜴(トカゲ)食らうか時鳥(ほととぎす)
芭蕉の門人・宝井其角の句です。情緒あふれる鳴き声の美しさから、俳句や歌に読まれるほととぎす。だが、その同じ口でトカゲを食うとは驚いたものだということ。転じて人や物事は容貌や外見だけでは、実態や本質がわからないということのたとえ。外見と中身が違って驚かされる場合が多いものである。
忠臣蔵に「両国橋の別れ」という名場面がある。明日は討入りという日、大高源吾は煤払いのための竹売りに身をやつして、両国橋にさしかかったところ、向こうから歩いてくる其角に出会う。源吾は子葉という俳号をもつほどの俳諧好きで、其角は師匠格にあたる。其角は源吾のみすぼらしい恰好を見て、その落ちぶれようを気の毒に思い、自分の羽織を着ていけという。源吾は西国に就職が決まったからご心配なくと言う。二人はしばし大川の流れを見ながら、いっときの付句をする。其角が「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠むと、源吾は「明日待たるるその宝船」と結ぶ。史実というより作られた話であろう。其角は察すれば源吾の「明日待たるるその宝船」の意味はわかったはずなのだが、芝居では其角を世事に疎い俳諧宗匠にした。けれども世間はこの段で其角ファンになったのである。
芭蕉の門人・宝井其角の句です。情緒あふれる鳴き声の美しさから、俳句や歌に読まれるほととぎす。だが、その同じ口でトカゲを食うとは驚いたものだということ。転じて人や物事は容貌や外見だけでは、実態や本質がわからないということのたとえ。外見と中身が違って驚かされる場合が多いものである。
忠臣蔵に「両国橋の別れ」という名場面がある。明日は討入りという日、大高源吾は煤払いのための竹売りに身をやつして、両国橋にさしかかったところ、向こうから歩いてくる其角に出会う。源吾は子葉という俳号をもつほどの俳諧好きで、其角は師匠格にあたる。其角は源吾のみすぼらしい恰好を見て、その落ちぶれようを気の毒に思い、自分の羽織を着ていけという。源吾は西国に就職が決まったからご心配なくと言う。二人はしばし大川の流れを見ながら、いっときの付句をする。其角が「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠むと、源吾は「明日待たるるその宝船」と結ぶ。史実というより作られた話であろう。其角は察すれば源吾の「明日待たるるその宝船」の意味はわかったはずなのだが、芝居では其角を世事に疎い俳諧宗匠にした。けれども世間はこの段で其角ファンになったのである。
思う事一つ叶えばまた一つ
欲望が一つ実現すると、すぐに別の欲望が起こることから人間の欲望にはきりがないことのたとえ。
同じ意味で「隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望む」という成語がある。後漢の光武帝が隴の地方を手に入れたのに、さらに蜀を攻めようとしたという故事から。
「船を浮かすのも水、沈むのも同じ水」という言葉があります。水を人間の欲と解釈すれば、金のために堕ちた人は古来多い。
欲望が一つ実現すると、すぐに別の欲望が起こることから人間の欲望にはきりがないことのたとえ。
同じ意味で「隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望む」という成語がある。後漢の光武帝が隴の地方を手に入れたのに、さらに蜀を攻めようとしたという故事から。
「船を浮かすのも水、沈むのも同じ水」という言葉があります。水を人間の欲と解釈すれば、金のために堕ちた人は古来多い。
欲は悪ではありません。むしろ生命のエネルギーの根源だと私は思っています。仏教の言葉に「火について焼けず火にそむいてこごえず、よく火を利用するごとく、人、欲を修道の方に向けよ」というのがありますが、修道に励む僧より、貯蓄に励む僧のほうが圧倒的に多いですね。
明日ありと思う心の仇桜
今日は美しく満開に咲き誇る桜を、明日もまた見られるだろうと思って安心していると、その日の夜のうちに強い風が吹き荒れて散ってしまうかもしれないということ。未来の不確実さ、人の世の無常を説いたことば。また、明日をあてにしていると、せっかくの機会や貴重なチャンスを失うということ。
浄土真宗の開祖・親鸞が、わずか九歳のとき詠ったというが、信じられない。後ろに「夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」と続く。もっとも私の主義は「明日でいいことは明日せよ」、「明日は明日の風が吹く」なんですがね。
今日は美しく満開に咲き誇る桜を、明日もまた見られるだろうと思って安心していると、その日の夜のうちに強い風が吹き荒れて散ってしまうかもしれないということ。未来の不確実さ、人の世の無常を説いたことば。また、明日をあてにしていると、せっかくの機会や貴重なチャンスを失うということ。
浄土真宗の開祖・親鸞が、わずか九歳のとき詠ったというが、信じられない。後ろに「夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」と続く。もっとも私の主義は「明日でいいことは明日せよ」、「明日は明日の風が吹く」なんですがね。