山本笑月 『明治世相百話』という本のなかに、「初見参の拳闘と西洋相撲」という面白い記事がありましたので紹介します。
拳闘が初めて日本へ来たのは明治二十年の春、レスラー即ち西洋相撲(勢蔵註・プロレスのこと)も一緒で米国力士の一行十余名、同地で相当叩き上げた日本人の力士浜田常吉が肝煎りで、力士の大関はウエブスターという図抜けた大男、まず常陸山に輪をかけた立派さ。木挽町三丁目の空地(今の歌舞伎座付近)で天幕張りの興行、物珍しさに前景気は素敵。
拳闘がスパーラー、相撲がレスラー、土俵はむろん床張りで十畳ばかりの広さ、私は拳闘の方はよく覚えぬが、なにしろ日本での初物、ことに名も知れぬ外人同士の試合、まず判らずじまい。相撲も結局同じことだが、これは両力士が同体に倒れながら上になり下になり、床へ肩を押し付けるのが最後の勝負とあって、双方肩を気にしながら上を下へと揉み合う有様はむしろ柔道式、華々しい日本の相撲を見馴れた目には、ただもぐもぐと埒(らち)の明かぬこと夥(おびただ)しい。
やっと相手を取っちめて肩が床につくと審判が呼子の笛、「かたがつく」とはこのことかと見物一同ほっと息。次もまた同じくもぐもぐ、見る方も肩が張って寝ころびたくなる。第一、声援したくも名は知らず、そのうえ一勝負に二、三十分もかかるので好い加減くさくさ、気の短い東京ッ子には不評判で、私の見た日も桟敷はガラガラ、幾日も打たずに引き揚げた。後にも先にも西洋相撲はこの一回きりだが、拳闘は近来大流行(勢蔵註・昭和に入って)、全く時代が違う。
ウエブスター一人は後へ残って、その偉大な体格を呼び物に日本力士と合併、当時秋葉の原で興行の小錦剣山等の花相撲へ出場、力量は凄いが手業が鈍いので、幕内の中堅あたりにはよくなめられた。そこで愛嬌に三段目以下が五人掛りなどで遠巻きにわいわい。当人はフウフウいって追いまわす、手もなく布袋の唐子遊びに見物大喜び。
狩野一信「布袋唐子図」個人蔵 半田亀崎(愛知県)の山車の彫刻「布袋と唐子」
唐子(からこ)とは中国の子どもという意。巨漢の米国人レスラーにまとわりつく日本人力士が布袋と唐子に見えたのであろう。「布袋と唐子」は、室町時代から江戸時代を通じて数多く描かれているが、安産の祈願やお守りに使われたという。おそらく、布袋の大きなおなかと唐子という図が、妊婦と子供にたとえられたのであろう。ただし、中国には布袋と唐子という取り合わせはないようです。
長く相撲にたずさわってきた私にとって、テレビでの柔道、レスリングの五輪観戦は、いたずらに組手争いのみに時間が経過し、観ているこちらも、イライラしてくる。主審の主観、気分による「警告」が時間終了によって勝ち負けにつながってしまうこともある。その点、相撲は勝負が早いし、誰の目にも勝ち負けがはっきりわかる。相撲を見慣れた当時の著者の気分はよくわかる。
著者の山本笑月さん(新聞記者)は明治6年東京・深川の生まれだから、14歳のときにこの興行を観て、そのときの思い出を62、3歳になってから綴ったということなのだろう。
「日本人の力士浜田常吉」のことを調べてみました。正しくは「庄吉」。明治16年2月、序二段の相撲取が横浜巡業から脱走した。浜田を勧誘したのは、アメリカのサーカスのスカウトだった。浜田はアメリカでプロレスとボクシングの試合に出場した。渡米から4年後の明治20年、「欧米大相撲」のプロモーターとして外国人のレスラー、ボクサーを率いて日本に戻ってきた。しかし木挽町の興行は上記のように芳しくなかったようです。今度はアメリカ人レスラー、ウエブスターを西洋相撲の大関に仕立てて“内外対抗戦”というわかりやすいコンセプトを打ち出して大相撲とコラボした。これは大成功で、連日満員。大相撲との合同興行に自信をもった浜田はその後、大阪相撲や京都相撲とのコラボ企画を推し進め、「欧米大相撲」の一団は関西エリアを長期巡業した。