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Channel: 勢蔵の世界
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松平忠郷のこと

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ひょんなことから、二人の松平忠郷の存在を知りました。二人とも大きな事件に関連しています。
天明4年(1784324日、旗本・佐野善左衛門(諱は政言・番士27歳・500石)が、若年寄・田沼意知(おきとも・意次の嫡子・遠州相良・5万7000石・35歳)を「覚えがあろう」と3度叫んでから江戸城中で襲撃した。そばには、何人かの若者がいたが、突然の出来事に何もできなかったが、遠くから齢70になる松平忠郷(たださと・大目付)が駆け寄って来て、善左衛門を組み伏せて押さえこんだ。
意知は8日後の42日に死亡したため、翌3日に、善左衛門は切腹を命じられた。詰問を受けるも「狂気の致すところ」と答えるのみ。佐野家は絶家になったが幕末になって再興された。世間からあまり人気のなかった田沼を斬ったということで、西浅草徳本寺に建立された善左衛門の墓には多くの江戸市民が参拝に訪れた。また善左衛門が切腹した翌日から米の値段が下がり始めたため、「世直し大明神」として崇められた。これを契機に松平定信ら反田沼派が台頭することとなり、意次の権勢が衰え始める。
犯行の動機は、意知とその父・意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借り返さなかった事、上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領し田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが一向に昇進出来なかった事、等諸説あったが、幕府は乱心とした。
 
この事件から遡ること約80年前、元禄期にも松平忠郷(旗本)という同名の人物がいた。前者は深溝(ふこうず)松平庶流で、こちらは桜井松平家庶流。むろん両者に血縁はない。ときおり江戸切絵図を見るが、松平姓の屋敷がとても多いです。
この忠郷の実弟が、浅野内匠頭の重臣・岡林家に養子に入った杢之助(諱は直之)。岡林家は大石家に次ぐ家老としての名家である。元禄14年(1701314日、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及ぶと浅野家は断絶となり、杢之助は実家に戻った。翌年12月、吉良邸への討ち入りが行われると、忠郷は激怒した。義挙に加わらなかったのは、桜井松平家の恥さらしであると忠郷は杢之助を痛烈に批判し、ついには弟・忠輝の介錯で無理やり切腹させた。町奉行所では「杢之助の乱心」として事件を処理したという。
 
ついでながら、蒲生氏郷の孫で会津60万石を継いだ蒲生忠郷は、母親が家康の娘だったことから松平忠郷と称した。もっとも三者とも忠郷という諱(いみな)で生存中は呼ばれることはなく、通称あるいは官名で呼ばれた。諱は家族が知っていたぐらいで、テレビを観ていると「家康殿」とか「光秀殿」と諱で呼ぶが、まずありえない。
当時は、佐野事件の忠郷は松平対馬守で、弟を切腹させた忠郷は松平孫左衛門、氏郷の孫の忠郷は松平下野守ですね。
 
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