12月1日は映画の日。
明治29年に日本で初めて映画が一般公開されたことを記念する日です。映画製作の始まりに合わせて映画俳優も誕生しますが、その中で日本最初の映画スターとなったのが尾上松之助です。朝日新聞9月7日付に次の記事がありました。
明治29年に日本で初めて映画が一般公開されたことを記念する日です。映画製作の始まりに合わせて映画俳優も誕生しますが、その中で日本最初の映画スターとなったのが尾上松之助です。朝日新聞9月7日付に次の記事がありました。
「日本初の映画スター、尾上松之助が主演した「忠臣蔵」の映画フィルムが、京都市内で見つかった。生涯に1千本以上の作品に出演したとされるが、映画フィルムはこれまで10本程度しか確認されておらず、極めて貴重だ」(今年9月7日付)
尾上松之助のことを調べてみました。名前から梨園出身者だと思いましたが、そうではないようです。
「日本映画草創期に活躍した時代劇スターであり、日本初の映画スターといわれる。旅役者から牧野省三に認められて映画界に入り、『碁盤忠信源氏礎』でデビュー。牧野とのコンビで1000本以上の映画に出演、大きな目玉を向いて見得を切る演技が評判を呼び「目玉の松ちゃん」の愛称で大衆に親しまれた。立川文庫や講談でおなじみの英雄・豪傑・義人・侠客のほとんどに扮しており、トリック撮影を駆使した忍術映画では年少ファンのアイドル的存在となった。(中略) 松之助は真面目で几帳面な人であったが、金銭に細かく、「ケチ松」の綽名があり、「出すものは何でも嫌がり、舌を出すのもケチる男だ」と陰口をたたかれたりもした」(Wikipediaによる)
1000本以上の作品とは凄い。そのほとんどに主演。彼は大正15年に亡くなっている。国産トーキーが製作着手されるのが昭和2年だから、彼の作品はほとんどが無声映画。それに60分以下の短編だから量産できたのであろう。
彼は大スターで金持にもかかわらず、徹底した質素倹約の生活をした。でも実はその裏で、新聞を読んで災難に遇った人たちの記事を目にする度に、高額な義援金を送っていました。
また、京都で困窮している人たちのための公設住宅の建設や学校建設、赤十字社などへも巨額なお金をたびたび寄付しています。その総額は5万円以上になります。これらの功績で藍綬褒章と赤十字有功章を受章しています。大正9年の物価を見てみますと、もりそば10銭、巡査の初任給が45円ですからすごい金額です。
また、京都で困窮している人たちのための公設住宅の建設や学校建設、赤十字社などへも巨額なお金をたびたび寄付しています。その総額は5万円以上になります。これらの功績で藍綬褒章と赤十字有功章を受章しています。大正9年の物価を見てみますと、もりそば10銭、巡査の初任給が45円ですからすごい金額です。
貧しい境遇に育った松之助が、映画スターとなったおかげで裕福になった。世間へその恩返しだったのでしょうか。