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Channel: 勢蔵の世界
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続・「無法松の一生」

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左・宝塚歌劇時代の園井恵子  右・『無法松の一生』の阪東妻三郎と園井恵子。子役は長門裕之
 
 昭和33年作の「吉岡夫人」役の高峰秀子もよかったが、昭和18年作の園井恵子の気品には及ばない(と思う)。
 当初、「吉岡夫人」役は入江たか子、水谷八重子の二人が候補に挙がり、稲垣監督は両者に交渉したが会社から断られ断念。続いて結婚後、宝塚歌劇団を退団した小夜福子に出演依頼をしたが、折悪しく小夜は妊娠中で出演を辞退した。しかし小夜は、同じ宝塚歌劇団の園井恵子を稲垣に紹介した。彼は園井の起用を決めた。園井は稲垣の予想以上に吉岡夫人を好演した。稲垣は園井について、「まるでこの役をやるために生まれてきたような人だった」と評している。『ひげとちょんまげ』(稲垣浩・毎日新聞社刊)
 吉岡夫人の一人息子の子役を演じたのが長門裕之でした。
 「園井恵子さんがお母さん役でした。園井恵子さんは宝塚で男役をずっとやっておられて、新劇や映画に転向されたのですけど、稲垣監督は『あなたは女性として花を咲かせなさい、咲かせるべきだ』とおっしゃったんです。彼女に『女になりなさい、女になりなさい』と繰り返し現場でも言ってました。園井さんはどうやったら女になれるのか、悩んだそうです。そこで子供である僕に愛情を注ぐ、僕を本当の子供のように慈愛をもって愛することで女を演技的につかみたいと、だから僕を本当の子供みたいになさるんです。しょっちゅう僕を側において抱いたり、おんぶしたり、激しいんですよ。僕はショックでした。それまで他の女の人からそれほど愛されたこともなく、だから初めて感じた女性が園井さんなんです.。園井さんの芸熱心さは驚くほどで、あの阪妻さんもいろいろ言われながらじっと耐えて、はい、はいと言っておられました。芯の強い方だな、と思いました」
 昭和1669日、内閣情報局によって「日本移動演劇連盟」が結成された。戦時体制下に演劇、映画を組み込む手段だった。
 昭和2086日、移動演劇隊のさくら隊(団員13名、スタッフ4名の計17名)に参加していた園井恵子は、広島で公演中に被爆した。団員5人が焼死した。園井は人々の後ろについて東の比治山に移動。その夜は比治山に野宿。翌日、海田まで歩いて行き、農家の納屋に寝かせてもらった。外傷もない彼女は助かったと思った。8日海田市駅から避難列車にもぐり込み、9日に神戸駅で下車。神戸市灘区上野町の中井家に入った。中井家は長く宝塚の後援者だった。
 玄関に入るやいなや、園井は「助かったのよ」と叫んでいた。しばらくして、脱毛が始まり、発熱も始まった。40度近い高熱で意識も混濁。そのうち毛が抜けて額がはげあがった。小豆大の潰瘍が全身にできて、穴をあけると黒紫膿汁が噴出し、身をよじって煩悶した。8月21日午後9時死去した。
32歳没。
 
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