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Channel: 勢蔵の世界
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天命

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 56年くらい前までは、日が替わる時刻前には寝たことはなかったが、馬齢を重ねた今は、もういけません、早くから床に就いてしまいます。したがって読書量が減り、ネットでのネタ探しの時間も減り、ブログに載せようにもネタキレで困っています。これをネタキレ老人と申します。
 というわけで昔の稿をひっぱりだして手を加えて再投稿となります。
 
  <天命>  列子(揚朱から)
 十年亦死百年亦死 十年なるも亦(又)死し、百年なるも亦死し、
 仁聖亦死凶愚亦死 仁聖なるも亦死し、凶愚なるも亦死す。
 生則堯舜死則腐骨 生きては則ち尭舜なるも、死すれば則ち腐骨。
 生則桀紂死則腐骨 生きては則ち桀紂なるも、死すれば則ち腐骨。
 腐骨一矣熟知其異 腐骨なるは一なり孰(誰)かその異なるを知らん。
 且趣當生奚遑死後 且(しばら)く当生に趣かんのみ。なんぞ死後に遑(いとま)あらん。

 (意訳として)
 十年生きようが、百年生きようがいずれ死ぬことは同じだ。
 聖人だって死ぬし、凶悪者・愚者だって死ぬ。
 尭舜という聖天子だろうが、桀紂という暴君であろうが死ねば同じく腐骨。
 一体誰がその違いを知るというのだ。
 暫くは当生(この世)に生きるのみだ。死んでからのことはケセラセラじゃないか。

尭舜(ぎょうしゅん)は固有名詞ではなく、中国、古代の伝説上の聖王・尭と舜のことで、徳をもって天下を治めた。桀紂(けっちゅう)とは古代中国・夏(か)の桀王と殷(いん)の紂王のこと。ともに暴虐な君主。
 列子は老子の弟子ですから道家ですね。また荘子の先輩ともされるが、その事績は不明です。
 儒家が礼節や秩序を重んじた調和的社会の建設を理想としたのに対し、道家はもっと観念的で、精神主義的な色彩が強いですね。儒家思想が人の上に立つための政治的、公的な教えに対し、道家は私的、内面的な思想生活を支えるものとなり、宗教や芸術とも深くかかわるものとなった。上記は、尭舜の世を理想とする儒家が記す文章ではありませんね。
 
 つい先日、近所の御主人が亡くなった。想像するに団塊の世代のお年頃であろうか。亡くなる前日にも見かけたから、死は突然訪れたようです。
 どんな人物も死ねば腐骨になるというのは、平家物語の「祇園精舎の鐘の声・・・」に似た無常を感じます。感じ方は人それぞれでしょう。「しばらく、当生に趣かんのみ」の一文は、伊達政宗の「この世に客に来たと思えば何の苦もなし」に通じるものがあると思います。
故に腐骨になる前に、限りある人生を、悔いのないものにしなければ、と受け取りました。
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