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青緡五貫文とは?

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              ↑ 100文(実際は96文)が10本で、一貫文

落語の「孝行糖」、「二十四孝」、唐茄子屋政談」、「松山鏡」に、親孝行であるとしてお上から「青緡(あおざし)五貫文のご褒美をいただく」というセリフがでてくる。青緡五貫文というのはどういうものだろうか。また「五貫裁き」という噺では、「罰金として五貫文」とでてくる。名は出さないが、「孝行糖」を演じるプロの噺家さんのブログに、「五貫文とは100文さし5本で500文」とあり、びっくり。おいおい、自分の噺に出てくる銭の量ぐらい調べて把握しておけよ、と思いましたね。

青緡というのは、お上からのものは紺に染めた麻縄で、一文銭を96枚差して百文として通用した。一千文を一貫文という。五貫文だから銭五千枚ですね。ちなみに銭千枚は3.75キログラムで、一貫の重さの単位でもある。舟釣りをした人ならわかりやすいが、100号で百匁(もんめ)、銭百枚分の重さで、375グラムです。銭一枚の目方が1匁で、銭の重さが計量の基準になったのはあきらかです。

さて五千文であるが、江戸時代も長いから今の金額に換算することは難しい。銭湯の料金は、天明年間(1781~1789)迄は、一人前6文、その後8文となり、享和年間(1801~1804)10文。幕末になると社会も物価も不安定となり、文久三年(1863)に12文に、二年後の慶応元年(1865)には16文、翌年八月下旬には24文にもなっている。今の東京の銭湯の料金は大人460円である。そこで江戸時代を10文とすると五貫文は23万円になる。庶民にとっては大金ですな。因みにお上(幕府・奉行所)は上級武士に褒美を与える時には、黄金何枚と大判(一枚7.5両)をつかい、その下の身分の者には銀をつかい、庶民(百姓・町人)には、何貫文と銭を下された。もっとも、褒美の青緡五貫文というのは定まった金額ではないようで、森下町四郎兵衛店の喜兵衛は主へ忠節で、小松代町喜左衛門店の半七は実母へ孝行ということで、二人がそれぞれ50貫文を町奉行からもらっている。(『元文世説雑録』) 50貫文だと名誉なだけでなく経済的にも有り難いであろう。荷車でないと持ち帰ることができないですな。有名人では八代目市川団十郎が弘化2年5月、父母への孝により青緡10貫文貰っている。(『愼徳院殿御実紀』巻九)

江戸時代では、忠孝だけではなく、三つ子が生まれたらご褒美がくだされた。
 元禄16年(1703)5月25日、西の久保(港区虎ノ門)天徳寺前に住む吉兵衛(38歳)と女房(23歳)のあいだに男子の三つ子(三助、伴助、惣助)が生まれる。幕府は、めでたいことだと50貫文をプレゼントした。時の将軍は五代・綱吉である。
 続いて宝永4年(1707)1月15日、弓町(中央区銀座)の長兵衛(43歳)と女房(43歳)に男子の三つ子が授かり、これは当時としては高齢出産だったようで、やはり幕府は50貫文をプレゼントした。そして享保13年(1728)にも三つ子が生まれる。
 明和3年(1766)9月に幕府は、三つ子が生まれると褒美に鳥目50貫文をつかわすと町触れした。そのあと安永5年(1776)には女子ばかりの三つ子が生まれる。そして寛政7年(1795)正月に本所緑町(墨田区緑町)の豆腐屋松五郎の妻(当時40歳)が三つ子を産む。三つ子は元気で褒美をもらうものの、産後の肥立ちがわるくなり妻は亡くなってしまう。 双子の出産は褒美が貰えたという記録はないが、当然周囲から祝福を受けたと思われる。ただ男女の双子は、心中の生まれかわりと(昔は)嫌われたと聞いたことがある。

 私が小学生の頃、六つ子の「おそ松くん」という漫画が人気あった。六つ子よりむしろ脇役たちが人気者になり、なかでも、おフランス帰りと自慢し、体をひねって片足立ちで奇声「シェー!」を発する「イヤミ」というキャラクターが受けた。子どもたちがその物まねをして、やたら彼の口癖の「シェー!」を連発するので一種の社会現象にもなった。 三つ子に褒美という江戸幕府の大盤振る舞いには、イヤミが「シェー!」するかもしれない。

 
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