「青物売」が大根を売っているところ。 『江戸職人歌合』(文化5年〈1808〉刊)より。
笑いをとろうとするオヤジギャグは、どのような反応したらよいかと若い人を戸惑わせるが、江戸時代もさかんだった。
「その手は桑名の焼き蛤」、「恐れ入谷の鬼子母神」、「そうはいかのキンタマ」などは、江戸時代に作られたものが、今でも使われていますね。江戸時代は「地口」(ぢぐち)と言ったが、「びっくり下谷の広徳寺」(広徳寺は下谷から現在は練馬桜台に移転している) 「嘘を築地の御門跡」、「何か用か、九日十日」など枚挙にいとまがない。
「腹がへりま大根」もよく使われたという。江戸庶民にとって大根といえば「練馬大根」である。青首大根のように首が青くなく、首から下がやや太めで長い大根である。かつてミニスカートから太い足が出ていると「大根足」と失礼なことを言ったものだが、言い得て妙であった。「大根役者」という言葉があるが、大根はめったに食当たりしないことから当たらない役者→下手な役者という意味で用いられる。
江戸の地が開発された17世紀初頭から、練馬は近郊農業地帯として発展し、やがて関東平野の内陸の近郊農業地帯の代名詞のようになり、そこで栽培された大根は練馬の名産となった。今では、練馬は一大住宅地に変貌したが、わずかではあるが「練馬大根」は作られつづけているという。
ちなみに、江戸時代、大根は煮物だけでなく、おろしにして蕎麦(そば)などの添え味、または消化を助けるために用いられたようで、今日考えるよりももっと広範囲に使われていた。少し辛みのある練馬大根は、ちょっと濃い味の江戸の食べ物に合ったのかもしれない。
江戸の土地の名にちなんだ野菜は結構多い。「小松菜」もそうであり、武蔵国葛飾郡小松川村(現在の東京都江戸川区北西部)産の春の野菜ということになる。正月の雑煮用などとして江戸へ出荷される野菜としてなじみ深いのは、現在も変わらない。
ところで、これら野菜の栽培に必要なのは肥料であるが、今のような化学肥料がない江戸時代は「糞尿」が主流であった。江戸時代どころか私が子供の頃(昭和30年代前半)まで「糞尿肥料」は利用されていて、小学校入学前だったが、尻がかゆくてかゆくてパンツを脱いでみると、パンツの中に15センチくらいの回虫がうごめいていてビックリした経験がある。尾籠な話で申し訳ないが、この寄生虫を体内に持つ人の糞が畑にまかれ、卵が付着した野菜を私が食したというわけである。
「腹がへりま大根」もよく使われたという。江戸庶民にとって大根といえば「練馬大根」である。青首大根のように首が青くなく、首から下がやや太めで長い大根である。かつてミニスカートから太い足が出ていると「大根足」と失礼なことを言ったものだが、言い得て妙であった。「大根役者」という言葉があるが、大根はめったに食当たりしないことから当たらない役者→下手な役者という意味で用いられる。
江戸の地が開発された17世紀初頭から、練馬は近郊農業地帯として発展し、やがて関東平野の内陸の近郊農業地帯の代名詞のようになり、そこで栽培された大根は練馬の名産となった。今では、練馬は一大住宅地に変貌したが、わずかではあるが「練馬大根」は作られつづけているという。
ちなみに、江戸時代、大根は煮物だけでなく、おろしにして蕎麦(そば)などの添え味、または消化を助けるために用いられたようで、今日考えるよりももっと広範囲に使われていた。少し辛みのある練馬大根は、ちょっと濃い味の江戸の食べ物に合ったのかもしれない。
江戸の土地の名にちなんだ野菜は結構多い。「小松菜」もそうであり、武蔵国葛飾郡小松川村(現在の東京都江戸川区北西部)産の春の野菜ということになる。正月の雑煮用などとして江戸へ出荷される野菜としてなじみ深いのは、現在も変わらない。
ところで、これら野菜の栽培に必要なのは肥料であるが、今のような化学肥料がない江戸時代は「糞尿」が主流であった。江戸時代どころか私が子供の頃(昭和30年代前半)まで「糞尿肥料」は利用されていて、小学校入学前だったが、尻がかゆくてかゆくてパンツを脱いでみると、パンツの中に15センチくらいの回虫がうごめいていてビックリした経験がある。尾籠な話で申し訳ないが、この寄生虫を体内に持つ人の糞が畑にまかれ、卵が付着した野菜を私が食したというわけである。
練馬大根も小松菜も、江戸市中の住民の糞尿が、葛西舟(かさいぶね)と呼ばれる「おわい舟」(あるいはおかわ舟)で練馬、小松川村などへ運ばれて肥料となった。隅田川を上って武州(現在の埼玉県)へも葛西舟で運ばれてきた糞尿は別の舟に移されて、その空舟の水槽の中にドジョウやウナギを放り込み、糞尿の養分で、ドジョウやウナギの生育を早め大きくする方法が江戸時代には採られていたという。
ところで、そういった人間の糞尿が唯一最大の肥料だったかというと、砂糖の原料の甘蔗(かんしょ)には意外に効果がなかったようです。いわしの魚肥(干鰯=ほしか)が甘蔗や綿花の栽培に適し生産量を上げるのに役だったという。練馬大根なども、連作の弊害を避けるために、人間の糞尿だけでなく干鰯も使わなければならなかったようです。天明年間(1781~88)には、それまでの乱獲がたたり干鰯は品不足になり、肥料代が高騰し農民は困った。そこで田沼意次が北海道の開拓に着手して、鰯の代わりにニシンを代用肥料として活用させた。ニシンの魚卵は数の子だが、これは江戸時代から既に珍品として贈答用に使われたりしていた。練馬大根も、その肥料の歴史をひもといてゆくと、海の魚肥という有機質肥料との融合もあって、太く大きな大根となったわけである。
ところで、そういった人間の糞尿が唯一最大の肥料だったかというと、砂糖の原料の甘蔗(かんしょ)には意外に効果がなかったようです。いわしの魚肥(干鰯=ほしか)が甘蔗や綿花の栽培に適し生産量を上げるのに役だったという。練馬大根なども、連作の弊害を避けるために、人間の糞尿だけでなく干鰯も使わなければならなかったようです。天明年間(1781~88)には、それまでの乱獲がたたり干鰯は品不足になり、肥料代が高騰し農民は困った。そこで田沼意次が北海道の開拓に着手して、鰯の代わりにニシンを代用肥料として活用させた。ニシンの魚卵は数の子だが、これは江戸時代から既に珍品として贈答用に使われたりしていた。練馬大根も、その肥料の歴史をひもといてゆくと、海の魚肥という有機質肥料との融合もあって、太く大きな大根となったわけである。
参考・HP『そのことば江戸っ子だってね』 棚橋正博
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