大正時代から昭和初期にかけて大ノ里萬助という小兵の名大関がいた。
「相撲の神様」と謳われた。青森県南津軽郡藤崎町出身。明治43年の夏に大相撲の巡業が弘前へ来た際に相撲にあこがれ、翌年周囲の忠告・静止を振り切って上京した。若松部屋の門をたたくも、その小さい身体に唖然とされたが、あまりの熱心さに根負けした若松が「暫くは置いておこう」と入門を許可した。
7年後の大正7年26歳で入幕するも、このときでも162cm、75キロだから、今なら力士になることはできない。(今の新弟子検査の合格基準は23歳未満、167cm以上で体重67kg以上)
小兵ながら腕力と足腰が強く、常に正攻法で当たり、筈押しを得意としたがひねり、いなし、叩き込みなど変化縦横の取り口で、その稽古は猛烈をきわめた。
大相撲を観る醍醐味、たのしみのひとつは小兵力士の活躍ですが、今はおしなべて大型力士ばかりで小兵力士は少ないですね。
彼は優勝こそないものの立派に大関を務め、向上心を失うことなく熱心に稽古に取り組む姿や温厚な性格、若手力士に対する厳しくも熱心な指導によって「相撲の神様」と呼ばれ、多くの力士から人望を集めた。
大関をつとめること7年、そろそろ引退も間近かと思われた昭和7年1月場所直前に、勃発した春秋園事件では日本相撲協会を脱退、関西角力協会で土俵を務めたのち、昭和10年一月に引退した。引退後は取締や頭取を務めたが、昭和12年12月には関西角力協会は解散。大半の力士は東京に帰順を許された。大ノ里は春秋園事件からの労苦続きからか肋膜を患い、愛弟子の帰参を見届けてから、昭和13年死去、45歳没。
彼の訃報の翌日、出羽海部屋に大ノ里から最後の手紙が届いた。その手紙には、出羽海部屋に帰参した自分の愛弟子を死の床でも気遣い激励する内容で、愛弟子たちは慟哭したという。尾崎士郎氏に「大関大ノ里」という感動的な短編がある。
通算成績:262勝160敗8分4預22休 勝率.621
「春秋園事件」とは、天竜をはじめとする出羽海部屋一門の力士たちが相撲道改革ののろしをあげ、協会と正面衝突したあげく大井の中華料理屋春秋園に籠城した。天竜が主導したことから「天竜事件」とも呼ばれる。力士団が要求した内容は次の10ヵ条。
「協会の会計制度の確立とその収支を明らかにすること」 「興行時間の改正」「入場料の値下げ、角技の大衆化」 「相撲茶屋の撤廃」 「年寄の制度の漸次廃止」 「養老金制度の確立」 「巡業制度の根本的改革」 「力士の収入増による生活の安定」 「冗員の整理」「力士協会の設立と力士の共済制度の確立」。
協会は受け入れ難く、脱退した力士48名(資格者)と式守伊三郎ら行司4名を2月23日付で除名処分とされた。協会は幕下力士を、十両を飛ばして入幕させる編成を余儀なくされた。大ノ里は大関として、師匠と同輩との板挟みにあって苦慮したが、脱退力士団に参加する。「関西角力協会」は、天竜の「智」、大ノ里の「徳」に負うところが大きい。