現役最晩年の十九代伊之助(1959年)→
来週11日に大相撲秋場所が初日を迎えますが、昭和33年の秋場所初日、結びの一番の取り組みに物言いがついた。
横綱・栃錦―前頭7枚目・北の洋戦で、北の洋が両差しで土俵際まで寄り詰めたところ、栃錦が突き落として同時に倒れた。伊之助は栃錦に軍配を上げたが、物言い協議の末、差違えで北の洋の勝ちと決した。だが伊之助は、「北の洋の右肘が早く落ちたんだ」と土俵をたたいて10数分も抗議を続けた。そのために出場停止処分を受けた。(14日目から再出場したが土俵に登場した伊之助を、観客は万雷の拍手で迎えています)
伊之助は、行司部屋に引き上げてからも「栃関のほうが遅く落ちた。わたしゃ自分の意向にそわぬうちわはあげたくねえ」と涙を流して訴えたという。各新聞社が撮った写真にも確かに北の洋の右肘のほうが早く落ちており、「伊之助涙の抗議」として世間の同情を集めた。
病気療養中に生やしたという白く長いあごひげがトレードマークで、ひげの伊之助としても親しまれ、久保田万太郎は「初場所や かの伊之助の 白き髭」と詠んだ。また甲高い声で土俵をさばいた事からカナリヤ行司との異名を取った。
頑固な名行司である一方、粗忽なドジとしての行司としても有名で、初土俵間もないころの序ノ口・尼ノ里 - 越の川戦で「あまがえるとこしかけ」と間違えて叫んでしまい周囲を慌てさせた。小柄な自分の身長を(152cmであった)を高く見せようとかかと部分に上げ底のゴムを敷いた足袋を履き、俵につまづいて土俵下に転落したというエピソードもあります。また土俵上で力士の名前を忘れてしまい「お前さんでございー」と勝ち名乗りを上げたり、三役格時代にも鏡里―玉ノ海戦で、鏡里が勝ったのに「玉ノ海!」と言ってしまいとっさに「…に勝ったる鏡里」と言ってごまかしたというエピソードがある。
それ以外にも1958年一月場所3日目、横綱・鏡里と前頭5枚目・島錦が右四つになったとき伊之助は島錦のさがりを抜こうとしたが軍配の下げ緒がさがりにからみつき、もぎ取られる格好で軍配が両力士の腹の間にはさまってしまい大あわて、館内は大爆笑。
ある年の九州場所、通用門から出勤しようとしたところ若い警備員に観客と勘違いされ、注意されたのに対して「余は式守伊之助であるぞ」と返したという。相撲界で「余」という言葉を使う人は珍しく、ここからも彼のキャラクターがうかがえる。
1959年11月場所で引退の際、土俵上で花束を受け取り土俵を去った。現役年齢では72歳まで務め、歴代立行司の中では最高齢だった。(1960年1月場所に停年制実施(65歳で停年)のため、以後この記録は破られない)
昭和33年といえば、長島茂雄氏が新人王を獲得し、11月27日 宮内庁長官が皇太子妃に正田英三郎日清製粉社長の長女美智子さんと正式発表。私の小学校入学前年でした。
もはやヒゲの伊之助の記憶のある人は、60代後半以上の年配者に限られる。 参考・「ウィキペディア」