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「雨ニモマケズ」の思い出

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 「雨ニモマケズ」は宮沢賢治の没後に発見された手帳に記された詩で、広く知られています。私にとって、とても思い出深い詩です。
 というのは小学校6年生のときに、この詩のパロディを作った。そのパロディを、担任のT先生がいたく気に入ってしまって、挙句、学芸会に朗読するはめになってしまったのです。
 「雨にもまけて、風にもめげて、・・・・・東に病気の子供あれば医者が悪いといい、西に疲れた母あればそのすねをかじり、南に死にそうな人あれば寿命だといい、北にケンカや訴訟あれば、やめるな続けろと言い・・・・・」といった他愛もないものです。まだ原文を朗読したほうがましで、気が進まぬまま舞台に立った記憶が残っています。余計なことながら原文を掲げます。
 
 「雨ニモマケズ」(原文)
 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテ瞋(いか)ラズ
 イツモシヅカニワラッテヰル
 一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
 北ニケンクヮヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒデリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ
 
 宮沢賢治がこれを書いたのは、昭和6年(1931)11月3日です。花巻の実家で床に伏せる日が延々と続いた。肺炎です。「丈夫ナカラダ」を持つことができずに、おそらく、死に対する不安を抱えながら綴ったのでしょうか。
 「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」というフレーズは、好きですね。私欲や我執があるうちは、とてもこんな気持ちになれませんね。病床で死を覚悟しているから言うことができるのでしょう。
 気になるフレーズがある。「南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」とは、自身が求めていることなのでしょうか。しかし「恐がらなくていい」というだけでは、逝く人にたいして説得力はありませんね。来世というものを信じて、再び生まれ変わって、転生するという確信を持って説かなければならない。まあ私の父母もそうでしたが、(癌でなければ)自分が逝くなんてことは露ほども思わぬ人が多いから「(死を)恐がらなくていい」とは余計なことかもしれない。
 「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と結んでいるが、「元気なうちは、そんなものになれるものか!」と叫んでしまうのである。
 昭和89月21日、宮沢賢治は満37歳で没。
 
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幕末の三烈女

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「幕末の三烈女」   列女」を調べていたときに、「幕末の三烈女」を知りました。簡単にまとめてみました。
 
 松尾多勢子 文化8年(1811)~明治27年(1894信濃伊那山本村(現在の飯田市)豪農竹村家の長女として生まれた。19歳で嫁ぎ夫婦仲は良く7人の子を育てながら、家業の傍ら和歌や平田派国学などを学んだりしたが、文久2年(1862、子育てが済んだ52歳で夫の許しを得て上京し、尊皇攘夷運動に参加。(52歳といえば昔は孫の世話する老女。凄いバイタリティです)公家の白河家、大原家に出入りするようになった。翌年、足利三代木像梟首事件に関与したとして長州藩の京都藩邸に逃れるが、後に秘かに伊那郡に戻って、天誅組や水戸天狗党の伊那地方における支援者として活動した。その間、幕府から追われる身であった志士たちを匿った。明治元年以降は京都に戻り、岩倉家に仕え、「岩倉の周旋老婆」とか「女参事」などと綽名(あだな)されたようです。翌年に新政府の確立を見届けた後は伊那郡に帰り、地元で農業や養蚕に勤しみながら晩年を過ごした。

 大田垣蓮月(れんげつ、女流歌人)寛政3年(1791)~明治8年(1875)歌人で陶芸家でもあるそうです。武士(藤堂家家老)の娘で、早くに知恩院寺侍・大田垣光古の養女となった。結婚して3人子が生まれたが、いずれも幼くして亡くなり、さらに夫も亡くなり、彼女は25歳にして寡婦となった。再婚するもまたも夫と死別した。世をはかなみ33歳のとき仏門に入ることを決め、養父光古と共に剃髪した。剃髪後、蓮月と号した。再婚して設けた女児、養父も亡くなった。和歌の才能に恵まれ、 蓮月焼きと呼ばれる焼き物に絵や歌を入れて売り、人気を博した。『大日本人名辞書』には「都辺の陶工これを模造して利を得る者また少なからず」また「国々より上京する者詠歌を乞ふの繁なるを厭いて家居を定めず」とある。若き富岡鉄斉らを世話したりした。梁川星巌(安政の大獄で捕縛寸前にコレラで病死)や梅田雲浜(若狭小浜の儒学者、安政の大獄で獄死)ら志士と交友をもち尊王思想を支持した。歌集「海人の刈藻」、「蓮月集」などが残されている。
 
 野村望東尼(ぼうとうに・あるいは、もとに・歌人・勤皇家) 文化3年(1806年)~慶応3年(1867) 福岡藩士・浦野重右衛門勝幸の娘。福岡藩士・野村新三郎清貫と結婚。安政6年(1859)、夫が亡くなり、剃髪して受戒。その後、福岡の南側の山村(現・福岡市中央区平尾)にあった自分の山荘に勤皇の士を度々匿ったり、密会の場所を提供したりする。彼女に便宜を図って貰った中には、勤王僧・月照、高杉晋作(長州)、入江八千兵衛(肥後)、平田大江(対馬)、加藤司書、平野国臣、中村円太、月形洗蔵、早川養敬(福岡)などがいる。慶応元年(18656月、福岡藩で、尊攘派弾圧の動きが強くなり、孫の野村助作と共に自宅に幽閉され、10月に姫島(現・福岡県糸島市)へ流された。以前にTVで観たことがあるが、猫でいっぱいの島でした。翌29月、晋作の指揮により志士たちが姫島から脱出させ、下関の勤皇の豪商・白石正一郎宅に匿われ、馬関で厚遇されるが、慶応3年(186711月、三田尻で死去した。向陵集、上京日記、姫島日記、防州日記などの遺稿が遺されている。
 晋作の辞世(?)「おもしろきこともなき世におもしろく」に、「すみなすものはこころなりけり」と下の句を付けたと伝えられています。
 
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知多の烈女

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 「烈女」にこだわります。水戸光圀公が大日本史編纂の過程で鎌田政家の妻女のことを知り、「長い日本史のうえで特筆すべき烈女」と絶賛いたしました。
 
 鎌田兵衛尉政家は源義朝の右腕というべき郎党頭。平治の乱で敗れた義朝は、東国で再挙すべく京を脱して落ちます義朝主従4人は、揖斐川に出たところで、舟を調達して南下します。伊勢湾にでたところで、政家が、
 「殿、舟を降りて尾張三河の街道を東に行くにはまだ危険が多すぎます。このまま舟で知多半島を海岸沿いに野間の庄に向かわれたらいかがでしょう。野間の長田(おさだ)庄司は私の舅ですから信頼できます」 (と、進言したと思われます)
 義朝主従が、野間の長田の屋敷にたどり着いたのが、暮も押し迫った1229日のことでした。庄司というのは名前ではなく、江戸時代の庄屋、今の村長さんといったような肩書きでしょう。名は忠致(ただむね)。彼には景致(かげむね)という屈強な息子がおります。以下小説風に物語を進めます。
 「おやじ殿、彼ら主従は落武者の身、おそらく東国へ下る前に討たれることでしょう。人に討たせて功名を奪われるよりも、我らが義朝殿を討てば平家からの恩賞間違いなし。それに尾張の国司から追捕の御触れが届いています。かくまったことが後にわかれば咎めは必定。いかがでございましょう」
 「うむ。わしもそう思っていたところだ。されど義朝殿は世に聞こえた剛の者、討ち取るのは並々ならぬぞ」
 「父上、妙案があります。湯殿へ入っているときを襲えば、寸鉄もおびておらず、しかも逃げ場はありませんから、確実に仕留めることは可能かと思います」
 「(膝を打ち)その手でやろう、風呂場で討取れば湯潅の必要ないからな、しかし婿の正家はどうする?」
 「兄者は、大の酒好き。しこたま酒を飲ませておき、異変に気付いて駆けつけたときに私が物陰に隠れ、横からブスリとし仕留めます」
 「お前も悪よのう、お豊には不憫だが、背に腹は代えられぬ」
 政家の妻女の名は史書には記されていませんが、名無しでは物語になりませんから仮に「お豊」としておきます。
 正月3日の夜、義朝は風呂をすすめられるまま入ります。
 「お背中をお流しいたしましょうか」という声とともに長田の家来が入ってきた。その後ろには抜刀した家来2人が控えている。義朝を屈強な郎党が羽交い絞めにしている間に、2人が両脇から刺す策です。
 「義朝様、お情けを頂戴したいと思います」と抱きついた。
 「無礼者!余にカゲマの趣味はないわ」と簡単にふりほどいて突き飛ばした。(ホモセクシャルのことを昔は陰間と申しました)すかさず2人が抜き身を下げて入ってきました。
 「何だお前たちは!さては長田めが謀りおったな」
 「義朝殿、お命頂戴いたします」
 「義朝は抜き身を下げて討死にし」という江戸川柳が残っていますが、こちらの抜き身が役立つのはおなごとの合戦だけ。いくら武芸にたけた義朝であっても素手ではかなわない。
 「む、無念じゃ、せめて、木太刀があれば、むざむざ討たれはせじものを」 
 と義朝が言い残したという伝説から、野間大坊(大御堂寺)にある義朝の墓の周りには願い事を記した木太刀が山の様に積まれています。
 
 さて、酒を飲んでいた正家は、只事ならぬ気配におっとり刀で走り出ましたが、物陰に隠れていた息子の景致に突き殺された。正家の妻女・お豊が正月ということで実家にいました。息絶えた夫に抱きついて、涙をぬぐって申しました。
 「窮鳥懐に入れば猟師これを殺さずと申します。何という非道な仕打ちでしょう。義朝様もおそらくこの世の人ではないでしょう。血がつながる仲とはいえども、兄上も父上も私には絶対に許せません。わたくしは兵衛尉(ひょうえのじょう)政家の妻でございます。よくごろうじませ」
 と、夫の太刀に手を伸ばして喉をつらぬきました。
 
 知多半島の美浜町にある野間大坊境内の義朝公廟所の一隅に、鎌田政家の墓がある。これに並んで「烈婦平氏墓」と刻された碑が、あたかも夫に寄り添う妻のようにひっそりと佇んでいる。(平氏とは長田氏が恒武平氏ということから)
 
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感動の画像・その2

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 五体満足ではなくても充実した人生を送れると気付かせてくれるニック。五体満足で、愚痴ってばかりいる自分が恥ずかしい。 
 
イメージ 2
 この画像を見て、亡き母を思い浮かべずにはいられませんでした。わが母も亡くなる前は、ずいぶん軽くなっていました。私をこの世に出してくれた母にたいして生前、感謝の思いが足りなかったことを悔いています。
 
イメージ 3
 戦争の記念碑となった戦車の前にひざまずくロシアの老人。かつての戦争の記憶がよみがえったのでありましょう。
 
イメージ 4
 世界貿易センタービル跡地にある記念碑に刻まれた息子の名前の前で、祈りを捧げる男性。
 
イメージ 5
 あるイラストレータによるシルエット絵。木と2人の男女の長い生涯が描かれています。素直に感動すればいいのですが、日本は一つの墓に入るのだとか、木の寿命があまりにも短いんじゃないか、と突っ込みを入れてしまいます。
 
イメージ 6
 ありふれた写真なのに妙に感動してしまいました。花を贈れば女性が喜ぶことを承知しているのですが、(私もそうですが)日本人の男はしないですね。かくて堂々と花を差し出す男が、女性のハートを射止めることになる。
 
イメージ 7
 フィリピンのセブ島で撮った写真で、少年の名前はダニエル・カブレラ君(9歳)。彼の家族は電気代が払えず家に明かりがないため、マクドナルドのドライブスルーの隣に木のベンチを持ってきて、宿題をしているところだそうです。たまたま通りかかった医学部の学生が写真を撮り、Facebookに投稿したことで1日に3万の「いいね」が一気についたと言います。世界中の人々が、「言い訳ではなく、方法を見つけよう」と心動かされる結果となりました。
 
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山下弁当

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 千葉県北部の我孫子市の手賀沼湖畔には、大正時代、志賀直哉や武者小路実篤らの別荘もあり、手賀沼は白樺派ゆかりの地でありました。
 JR常磐線・我孫子駅には、「山下弁当」と呼ばれる名物の駅弁がありました。中身はごく普通の幕の内ですが、その包み紙は、放浪の天才画家・山下清が描いたもの。実は山下清は昭和16年から4年間、この弁当屋さんに住み込みで働いていました。
 ひたすらイモやニンジンなどの皮むきをやったり、出来た弁当を駅まで運んだり、その仕事ぶりはとても丁寧だったそうです。でも、ときにはふいに姿を消し、何か月間も放浪に出ることもありました。そんな清を弁当屋の人たちは咎めるでもなく、またふらりと戻った彼を温かく迎え入れていたそうです。
 これが縁で、後年になって貼り絵画家として有名になった彼は、お世話になったお礼にと、駅弁の包み紙用に絵を描いたのです。
四季の四種の絵を描く予定が三種を描いたところで亡くなったそうです。上は二枚はその弁当の掛紙です。
 しかしその後、我孫子駅の周辺は宅地開発が進み、電車を利用するのが通勤客ばかりになり、停車時間も短くなり、駅弁は次第に売れなくなりました。そして1983年頃、山下弁当はついに姿を消し、「幻の駅弁」となったのです。
 いらぬことですが、この頃の(昭和末期の)手賀沼は、全国一汚い湖沼として全国ニュースで紹介されていましたね。
 駅弁の調製元である弥生軒さんは、現在は我孫子駅の各ホームで早朝から深夜まで立ちそば屋を営業しており、名物の「唐揚げそば」をわざわざ食べに来るファンも付いていて盛況であるという。
                                                           参考・FM FUKUOKA
 
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パナマ籍とリベリア籍

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  パナマ共和国は、北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の境に位置する。面積7万541km2(北海道の9割位)人口 345万人(2008推計)
  パナマ運河は重要な雇用の場で通行料は重要な収入源である。パナマ船籍の外国商船からの収入も多い。(便宜置籍船
  リベリア共和国は、面積9万6917km2。(都道府県面積1位の北海道と2位の岩手県を併せた位)人口 395万3000(2011推計)。首都はモンロビア。1847年にアメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国され、独立国としてはアフリカの中ではエチオピアに次いで古い国である。初代大統領は、アメリカ・バージニア州出身のロバーツ。リベリアとは「自由」という意味ですね。しかし1989年から2003年にかけて断続的に2度も起きた内戦により、国土は荒廃した。リベリアに限らず、アフリカ諸国の内戦は、権力者の部族を、反発した他の部族が攻撃するという構図が実に多いですね。イメージ 1↓リベリア
  海難事故が起きたとき、「パナマ船籍の船」あるいは「リベリア船籍の船」という言葉をよく耳にします。もちろんこの両国のオーナーの船ではない。船舶には船籍が必要であり、船籍を取るには費用(登録料や更新料)がかかり、また船舶には税金もかかる。このパナマとリベリアは、その費用や税金が他の国に比べて安いために、諸外国の多くがこの両国に船籍を置いているわけである。
   ほとんどの先進海運国では、自国の船には、原則的に自国が承認する海技免状等を持った船員の乗船を義務づけている。しかし先進諸国の船員は賃金も高く、より低賃金の発展途上国海運との価格競争では不利。便宜置籍国では船員の雇用等に関する規制が緩やかで、賃金の安い外国人船員を乗せることができるので、むしろ船員費対策でもある。
  1位パナマ籍352、192 2位リベリア籍203、832 【単位:千DWT2015年】と群を抜いている。ただこの稿は、リベリアはアフリカの何処にあるのだろう?という疑問から発しました。便宜置籍国を調べてみますと、パハマ(西インド諸島にある) マルタ、キプロスなどの地中海小国が同様の便宜置籍国であり、他にカンボジア、キリバス、グルジア、ホンジュラなどもそうで、さらにモンゴルとボリビアなど海岸線を領土に持たない内陸国まであって驚きである
 
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アメリカでガラガラヘビに噛まれた…この請求書を見てほしい

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 アメリカで、「ガラガラヘビに噛まれた」人が、治療請求書を公開していました。その驚きの金額に驚愕です。その記事をコピーさせていただきました。
イメージ 1

とりあえず上のほうの細かい説明は無視するとして……数字だけ見ていきます。

請求日  :2015713
支払い期限:2015727

患者へのサービス概要
薬        $83,341.25 (約1000万円)
臨床検査サービス $22,433.00 (約280万円)
中間ケアルーム  $21,225.00 (約260万円)
集中治療室    $17,766.00 (約220万円)
救急医療サービス  $5,564.00 (約70万円)
治療サービス    $1,423.00 (約18万円)
放射線        $947.00 (約12万円)
特別サービス     $462.00 (約6万円)
請求合計額    $153,161.25 (約1900万円)
清算             $0 
支払い保険料         $0
分割払い金          
$0
保険会社から支払われるべき額 
$0
あなたの支払うべき総額 $153,161.25 (約1900万円)
 
 1900万円!? 毒蛇からどうにか生き延びたと思ったら、今度は請求書で昇天しそうです。薬代が1000万円?俗に「薬九層倍」といわれるが、解毒剤がいくら高価でも、ぼったくりもいいとこですね。
 アメリカの自己破産の大半が医療費によるそうですが、これを見ると理解できます。
参考 『らばQ』 
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キラキラネーム

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難解で読むことが出来ないキラキラネームの子供が、実に多くなりました。
難関お受験校では、キラキラネームの子は書類だけで不合格にされることもあるという。学校の先生たちにとってもキラキラネームの子の親は要チェックなのだという。キラキラネームを付ける常識がない親モンスターペアレント予備軍、という公式が成り立っているという。就職試験の際、キラキラネームの学生の採用には二の足を踏む会社もあるという。
以下は、実際に存在する名前というが、親も子も改名するまで、世間に恥をさらすことになる。
亜菜瑠(あなる)ちゃん、麗澄(れず)ちゃん、雲広(うんこう)くん、篤路(とぐろ)くん、珠雅紫(すかし)ちゃん―いつも臭いと疑われるんだろうなあ。明芽(あくめ)ちゃん、夢星(むせい)くん、千襖(ちふす)ちゃん―伝染病ですよね。花鳥(かり)ちゃん、妃仁(ひにん)ちゃん、希空璃(ふぐり)ちゃん、歩智(ほと)くん―「ほと」は古い和語で、女陰を意味し、「ふぐり」は睾丸のことなのだ。馬鹿親は、周りに一切相談しないで付けたのでしょう。 
今、流行りのキラキラネームではないにしても、名前の難読で悩んだ人は昔からいた。
26歳ころまで、親父の付けてくれた「廈」という名で世渡りをしていたが、この一字には苦労をさせられた。「廈」は「ひさし」と読むのが正解なのだが、どなたもそうは読んでくださらぬのだ。「廈門」からの類推だろうが、たいてい「あもい」とお読みになる。また「か」と読んだ方も多かった。これは「大廈高楼」からきたのだろう。ひどい人になると「ぞうり」とお読みになった。なるほど「草履」の「履」は「廈」と似ていないこともない』  ―井上ひさし「ブラウン監獄の四季」
 
与謝野鉄幹、昌子は子宝に恵まれ、昌子は11人の子供を産みました。
光(長男)―秀(次男)―八峰(長女)―七瀬(次女)―麟(三男)―佐保子(三女)―宇智子(四女)―アウギュスト(四男)―エレンヌ(五女)―健(五男)―藤子(六女)
四男アウギュストは、これはパリを訪れたときに、彫刻家・アウギュスト・ロダンに会ったことを記念して付けられた。五女のエレンヌも外国名です。こうした名前を付けられた子どもたちこそ迷惑で、アウギュストさんとエレンヌさんは改名したそうである。
「妻をめとらば才たけて・・・」と歌った与謝野鉄幹であるが、作家の三浦朱門は「妻をめとらば曽野綾子」と色紙に記したという。「朱門」は本名というが、凝りに凝った父親の命名の印象を受けます。
朱い門といえば、堀口大学(詩人)も本名だそうで、東京大学の赤門前に家があったことが由来だという。「貴大学の入学願書を・・・・」という葉書が舞い込んだりして、「堀口大学」なる学校が葉山にあるのだと思っている若い人がいて閉口する、と語ったことがある。 
前に記したことがあるが、武士は、名を通称と諱(いみな)二つ持っていた。紛らわしいということで明治に入ってどちらかに決めることにした。多くは諱をとったが江藤新平、板垣退助などは通称をとった。西郷吉之助は、登録のさい東京におらず、友人が「たしか隆盛だったな」と勝手に届けた。隆盛というのは父親の諱で、吉之助の本来の諱は「隆永」だった。弟の信吾は、「隆興」をリュウコウと口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と記録されてしまった。
この二例とも間違いに気付いてすぐに訂正するのが普通だが、この兄弟は特に気にせず「そのままでよか」 ― 個人のことなどどうでもよかというこうした大雑把な気分が実に好きですな。
言うまでもないが、人物が輝くから付帯する名前も輝くのです。今の親はハツからキラキラ輝く(人がとても読むことができない)難解な名を付けて子の苦労を顧みないで悦に入っているように思うのだが。
 
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一所懸命と一生懸命

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いっしょけんめい【一所懸命】 封建時代に、武士が一か所の領地を命がけでまもって生活のよりどころとしたこと。⇒いっしょうけんめい。
いっしょうけんめい【一生懸命】 ものごとをしんけんにするようす。一心にするようす。参考:「一所懸命」の「所」を「しょう」とのばして発音したことからできたことば。         『新レインボー小学国語辞典』(学研教育出版刊)

 語源的には『一所懸命』であるが、実際の今の社会では、むしろ『一生懸命』の方が広く通用していると思われる。検索も「一生懸命」が1500万件、「一所懸命」が75万件と差がある。というのも新聞社や雑誌社では、外部からの寄稿などを除いて「一生懸命」に統一しているところが多いようです。NHKでも「一生懸命」を使っているそうです。パロディとして「会社人間」の仕事ぶりをもじって、「一社懸命」という表現も見かけました。
 ソフトバンクの孫正義氏は、福岡で起業した当初、営業活動など一切行わず、朝9時から夜中の2時まで事務所にこもり、様々な資料に目を通して、長期的戦略を練っていたそうで、売上が会社に入ってこないことを心配した社員は、会社がつぶれるのではないかと不安になったそうです。孫氏いわく「創業当時は、一生懸命ではなく一所懸命に働いた」
 一生懸命と一所懸命のどちらを使っても、意味のうえではどちらも間違いではないのですが、一生、命懸けで頑張れば、くたびれてしまいますな。

 「転石 苔(コケ)を生ぜず」という諺がある。転がり続ければ苔がつかない、錆び付かないということで、動いていれば新鮮であるという意味で捉えられている。浅野ゆう子が『転がる女にコケはつかない』というエッセイ集を出したし、石川さゆりの曲『転がる石』は、自分の娘に伝える歌で「転がって、ぶつかりながら自分の道をさがしてほしい」とある。
 この諺は、元は「A rolling stone gathers no moss」という英国生まれの諺で、商売替えや、ひんぱんに引越ししていてはお金がたまらない、「一所に腰を据えろ」という示唆を含み、伝統を重んじ安定を大切にしたイギリス人の考え方をあらわしている。これが米国に渡り新しい解釈が生まれた。日本は米国流です。英米両方の意味をあげている英和辞書がいくつもある。
 英国のロックバンド「ローリングストーンズ」は、根無し草、風来坊と自嘲して名を付けたのだが、私は「一所懸命」と聞くと、苔が付くのを嫌った「ローリングストーンズ」のことを思い浮かべてしまうのです。
 
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気にする人しない人

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かつて高座の上で「粗忽の使者」の武士の名が出てこずに、うろたえたことがあった。少々の間をおいて、幸い思い出すことが出来た。場数を踏んだプロともなるとうろたえることはない。
志ん生師は、噺の中に登場するお侍の名前を忘れてしまうと、「ううん、そのお侍さんの名はってぇと……」のあと、「ううん、どうでもいい名前」と言って誤魔化して、客はそれに爆笑したという。
先代円楽師は、引退の理由として「呂律が廻らない、ニュウアンスがうまく表せない。口演中に、今まで一度も経験したことがない雑念が入ってしまった」と語っている。
 文樂師は、一点一画をおろそかにしない、完璧な落語を演じることを目指しました。彼は精巧な機械が話すがごとく、同じ演目を何度演じても寸分たがわない噺を聞かせました。1971年8月31日の国立劇場小劇場での落語会で、『大仏餅』の中に登場する人物である神谷幸右衛門の名前を失念してしまい、「申し訳ありません。もう一度、勉強しなおしてまいります」と観客に謝罪をして、高座を降りた後、半年後に世を去るまで、一度も落語を口にしなかったという。最晩年の弟子の柳家小満んさんによれば、師はまさかの時に備え、詫び口上を日ごろから稽古していたという。
 
講釈の邑井貞吉師(戦後の講談界の重鎮)は、秀吉が幽細から和歌の道を教えられるという物語を講じて、「そのとき太閤殿下が詠みたもうた歌が…」とそこまで言って失念してしまった。「おい誰か楽屋に知っている者はいないかい?」袖に向かって声を掛けたが返事がない。「どなたかお客さまで御存じの方はいらっしゃいませんか?」 客席はどっとわいたが、教えられる客はいなかった。そこでやおら張扇をポンとたたき、「なに知らなきゃ知らないでよござんす。たいした歌じゃありません」
 
おのが芸の小さな瑕疵も許せぬ人、気にしない人、生まれもった性分はいろいろです。芸人ではないが、囲碁の名誉棋聖・藤沢秀行さんという人がいた。「気にしない」ことでは志ん生師、貞吉師を上回る大物です。以下友人の将棋の永世棋聖・米長邦夫さんとの対談から。
 米長  私のかみさんは、「うちの亭主は一週間のうち五日帰って来ないことがあるんです」と、先生の奥さんに相談したんです。すると「うちは三年帰りませんでした」(笑)
 藤沢  建売を買うということで読売ランドに見に行って、女房に「ここにしろ」と言ったら「そうしましょう」と買うのを決めた。そのとき一緒に行っただけで、そのまま行方をくらまし、三年くらい経って、ある日帰ったんだ。買うときに一度行っただけだから道がわからないんだ。(笑)            『勝負の極北』(クレスト社)
 
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終戦で自決した将官

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 この夏は、終戦70年ということで、メディアに戦争の話題が多いように思います。
7月25日池上彰の「戦争とは何なのかSP」という番組で、「米英などの連合国に対して日独伊は何と呼ぶのか」と質問が、ゲストの役所広司に向けられた。中学生でもわかる「枢軸国」が正解だが、彼は「わかりません」と答えた。今上映中の「日本の一番長い日」で陸軍大臣・阿南惟幾大将を主演した役者とは思われない。もっとも、私はこの映画は観ていませんが、こうした不面目な場面はカットすべきですね。
 
 阿南惟幾大将(あなみ これちか・昭和天皇は「あなん」と呼んでいたそうです)は、815日早朝、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で割腹しています。遺書には、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 神州不滅ヲ確信シツツ」と記されていた。
 
 ふと、思った。終戦で自決した軍人はいったい何人にのぼったのか。
 終戦時の自決者については『終戦時自決烈士芳名録』という書籍に記録が残されている。将官(小将以上)の自決者37名の内訳をみると、陸軍が31名、海軍が4名とある。海軍にくらべ陸軍将官に自決者が多いのは、すでに壊滅に近い海軍に比べて陸軍は本土決戦の覚悟があったためであろう。将官以下の軍人は568名の名前が書かれているが、名を残さず自決した軍人もまたいたであろう。主な将官を記します。
 寺本熊市・陸軍中将(陸軍航空本部長)終戦の日に日本刀で割腹自決。
 大西瀧治郎・海軍中将(海軍特攻の父といわれる)8月16日
「吾が死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」との遺書を残し、割腹自決。
 田中静壱・陸軍大将(憲兵司令官、第21方面軍司令官兼東部軍管区司令などを歴任)8月24日ピストル自決。
 島田朋三郎・陸軍法務中将9月4日ピストル自決。
 杉山元・陸軍元帥(陸軍大臣・参謀総長歴任)9月12日ピストル自決(胸に四発撃った) 夫人も青酸カリで殉死。
 本庄繁・陸軍大将(枢密院顧問、関東軍司令官を歴任)11月20日、割腹自決。
 
 東條英機・陸軍大将(元首相)は、誰よりも先に、自決するであろうと世間は考えていた。しかるに彼は自決せず。しかも9月11日、彼を米軍側から召喚に来るや否や、ピストルで自決したが、急所を外れた。女性用の護身銃であった。部屋には短刀も用意されていたし、権力者であるから青酸カリの入手も容易であったであろう。病院に運ばれ一命をとりとめ、昭和23年に巣鴨刑務所で絞首刑となるが、自殺に失敗したことに対する国民の反応は冷ややかであったという。
 
イメージ 1 15日正午の玉音放送と同時に,日本軍は米国および連合国軍に対する攻撃中止命令を出した。
 大分の海軍飛行場の宇垣纒(まとめ)海軍中将は、「彗星」(艦上爆撃機2人乗)の稼動機数を尋ね、11機という返答を得た。彼は5機用意するように命じた。しかし特攻機は11機が用意され、22名の搭乗員たちが整列していた。
 15日午後5時に沖縄沖に向かって大分基地から離陸した。(うち3機不時着)
 宇垣中将は、敗戦が決まってから16人の部下を伴って死地に赴いた。(宇垣機には3人乗った) これはいけない。部下を道連れにせずに、一人で勝手に腹を切ればいい。隊員はすでに死ぬ覚悟ができていた。玉音放送でやるせない感情を抱いていたところへ上官が特攻するときけば、共に散ることを望んだに違いないのである。
 (写真は、特攻直前の宇垣纏中将)
 
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自転車の初期時代

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 福沢桃介が明治22年アメリカからビクター号(セーフティー型自転車)を携えて帰朝。 以前に「福沢桃介」のことを載せたことがあります。
         → http://blogs.yahoo.co.jp/seizoh529/33121145.html
 
 
 以下『明治世相百話』(山本笑月著・中央公論社)からの一話「自転車の初期時代」をコピーさせていただきました。
 
 新式の自転車が、ポツポツ市中に見えたのは明治31,2年の頃。最初は輸入品だけに価格も高く、英国製スイフトが、200円以上、米国製デートン号が150円、名も知れぬ安物でも7~80、したがって乗り手もハイカラの中年紳士が多く、実用半分お慰み半分で、我々テク党を羨ましがらせたものだ。(勢蔵註・明治30年頃、小学校の教員やお巡りさんの初任給は月に8~9円ぐらいとありました)
 そこで私も職業上の訪問に利用したいものだと念願。(筆者は新聞記者) 幸い数寄屋橋内へ唐沢という知人が自転車屋を開業、さっそく一台借り込んで、今の商農工銀行裏にあたる川岸へ通ずる道路でお稽古。
 当時丸の内は大部分空地で草ぼうぼう、真っ昼間でもろくに人通りはなし、ことに横道は一層の閑寂、誰に気兼ねなく、落ちては乗り、乗っては落ち、こいつ案外楽じゃないと汗だくの稽古。
 ところが有楽町交番の若い巡査、これが自転車乗りを目の敵(かたき)。早速やって来て、人ッ子一人いない場所でも「道路であるから稽古あい成らん」と厳命。しかし草ッ原は凸凹で稽古できぬ、巡査が立ち去ると逆戻り、それと知ってまた襲って来る。急いで草ッ原へ逃げ込む、果ては双方意地ずくでいがみ合いつつ、どうやらよたよた乗れることになり、桜田門まで遠征、それが3度も下りて休憩という始末、いやはや初期のサイクリストあんまり自慢にならぬ。
 その後友人某も同所で稽古中、件(くだん)の巡査に襲われ、驚いて農工銀行の作業場へ逃げ込む途端、慌てて板塀の破れ穴の顔を突っ込み、2~3か所のみみず腫。ほうほうの体(てい)で銀座裏の自宅へ戻り、顔の手入れの最中、表へ来客。なんの気なしに出てみると、なんとこれが件の巡査。自転車屋で調べてカンカンになって迫撃、顔のみみず腫れが免れぬ証拠で「や、貴様だな」。ちょっと来いというのを平謝り、再びあそこへは参らぬと誓文を記してようやくけり。
 
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『リディック:ギャラクシー・バトル』というSF映画を観た。ケビンコスナーの『ダンス・ウィズ・ウルブズ』もそうだったが、孤独の主人公に、野生の狼が付かず離れず、それでいてなつくことはなく、いい助演をつとめていた。両作品とも終盤に主人公の敵に撃たれてしまう。
 
イソップ寓話の「狼と羊飼い」(「オオカミ少年」というタイトルの場合もある)は、「嘘はいけない」という教訓を含んでいるためによく知られています。
羊飼いの少年が、退屈しのぎに「狼が出た!」と嘘をついて騒ぎを起こす。大人たちは騙されて武器を持って出てくるが、徒労に終わる。少年が繰り返し同じ嘘をついたので、本当に狼が現れた時には大人たちは信用せず、誰も助けに来ずに村の羊は全て狼に食べられてしまったという話ですが、明治7年の小学読本では、なんと少年は狼のために噛み殺されている。また「狼と赤頭巾ちゃん」の話もあり、狼は人間に嫌われている動物で、いいイメージはない。
 
イメージ 1人になつかないだけで、狼が他の動物と違って人間的と思うのは、一夫一妻制だからです。狼の夫婦は互いに貞操を守り、大半は生涯連れ添うという。狼は家族を構成して生活する。すなわち雌雄のペアを中心とする平均4~8頭ほどの群れを形成するが、狩りをするときはファミリィ全員が協力して獲物を捕らえる。両親をなくした子狼がいると、家族全員でその子を育てあげるという。
 
 「狼藉者」という言葉は、TVや映画の時代劇にだけに出てきて、現代人は使いませんが、狼藉は中国の『史記 滑稽列伝』が由来です。 狼が寝るために敷いた草の乱れたありさまから、物が散らかっている様子を意味し、さらに「乱暴な振る舞い」という意味にも派生しました。
 
 
 能登半島突端に、狼煙(のろし)という名の町があります。(珠洲市) この名は海上交通用に狼煙が上げられたことに由来すると伝わります
「狼煙」とは、煙が多くでる狼の糞を燃料にしたことからとされる。 昔、中国では、藁などに狼の糞を混ぜて焼くと煙が垂直に上がるといって用いられたからという。風があれば煙は流されると思うのだが、何故、馬や羊の糞ではいけないのか。「狼の糞」は野生ゆえに手に入れるのが困難であろう。入手困難なものを混ぜれば得難い効果が得られる。おそらくこんな発想で生まれたのが狼煙という言葉だと思います。
 
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言葉の由来

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言葉の由来は、諸説あって100%絶対というものではないであろうが、その語源を尋ねることは、楽しいことである。
 
「せがれ」 親が自分の息子を謙遜していうときに用います。古くは娘にも用いられたというが、江戸時代の『皇都午睡』という随筆集に「我が子を悴(せがれ)ということばは、痩枯(やせがれ)の略語」とある。わが子をへりくだって「やせがれ」と呼び、それが略されて「せがれ」になったという。古くは「悴」と書き、「悴」には「やつれる」という意味がある。のちに略して「忰」あるいは「倅」と書くようになった。
 
「辛抱」  仏教語〈心法〉からのことばという。心法とは、心のあり方、また心を修める法を指すという。生身の人間ならば、心法の会得は容易なものではない。
江戸川柳に次の句がある。
 「しんぼうが曲がって独楽(こま)もそれはじめ」
 「しんぼうの棒が褌(ふんどし)突き破り」
「我慢」も仏教語ですが、我慢と辛抱は違うという。我慢というのは、耐え忍ぶことですが、自己にとらわれ、そのことに対して不満の気持ちがある状態。辛抱というのも、辛さ・苦しさに耐えるのですが、その気持ちの中に 不満がない状態という。耐えることは同じなのですが、そのときの心の状態が違っているのです。我慢はいつか爆発する恐れがあります。
 
イメージ 1「案山子」 
雀、烏などを追い払うために、田畑に竹や藁なので作った人形を立てる。
かかし」の直接の語源は「嗅がし」ではないかといわれる。古くは鳥獣を避けるため獣肉を焼き焦がして串に刺したり、毛髪やぼろ布などを焼いたものを地に立てた。戦国時代の日葡辞書には「カガシ」と掲載されている。案山子は当て字。
← 野球を楽しむ案山子たち。
 
「のっぴきならない」 「のっぴき」とは「退き引き(のきひき)」が音便化されたもの。「退き」も「引き」も避けることや逃れることを意味し、打ち消しの「ならない」が付いて、避けることも退くこともできない意味となった。
 
「助兵衛」(助平) 「好淫」(すき)が「助」に転化して、「太郎兵衛」「権兵衛」の兵衛を付けて擬人化した言葉。
「ときに座敷浄瑠璃の女は、美しい顔をして、みんな助兵衛ということだ」
「そうか、はじめて聞いたが、なぜまた、そんなに助兵衛ばかりだろう」
「残らず太棹ばかりひねくって居る」 (文政七年刊『流行落としばなし』)
三味線には太棹、中棹、細棹と三種類ある。義太夫節(浄瑠璃)三味線は、太棹を使用して、迫力ある重厚な音色を特色とする。
 
「派手」 
「聞いてくりゃれ。いま派手な女が通った。まず腰帯が金襴、ふんどし(腰巻)が緋縮緬(ひちりめん)に金糸で立つ波、折よく嬉しい風が吹いて、雪のような股が見えた」
「そりゃあ、さだめし器量もよかろうのう」
「やぼめ、顔を拝む間があるものか」 (安永二年『坐笑産』)
上の小噺に「派手」とあるが、本来は「破手」。「破手」とは、従来の手法を破った三味線の旋律で、基本的旋律の「本出」にたいして、細かくにぎやかな弾奏を特徴とした。この「破手」が華やかで人目をひく意味の一般的な言葉として普及していったという。
 
「のっぴきならない」 「のっぴき」とは「退き引き(のきひき)」が音便化されたもの。「退き」も「引き」も避けることや逃れることを意味し、打ち消しの「ならない」が付いて、避けることも退くこともできない意味となった。
 
「啖呵(たんか)を切る」 「痰火」は、咳をともなって激しく出る痰のこと。また、ひどく痰の出る病気のこという。すなわち喉にからまった痰をきることを「痰火を切る」といい、なおると胸がすっきりする。「啖呵」は「痰火」の当て字で、胸のすくような鋭くて歯切れのよい口上でまくしたてることを「啖呵を切る」というようになったと考えられている。
 
「皮切り」 物事の一番はじめ、手はじめなどを意味することばとして使用されるが、本来は、最初にすえる灸のこと。最初の灸は熱いために顔をしかめることになる。
「こりゃ三助、ここへ来て灸をすえてくれ」
「かしこまりました」
「こりゃ熱いわ、熱いわ、たまらぬ」
「これは皮切りでございますから、ちと熱うござりましょう。御辛抱なさりませ」
「べらぼうめ、気の利かねえ。皮切りは後へまわせ」  (文政三年刊『恵方棚』)
 
「のたうつ」 『東海道中膝栗毛』(十辺舎一九)に「おつぼはそこらをのた打ちまはり苦しみたるが…」という用例がみえる。
「のたうつ」は「ぬたうつ」が変化したものという。「ぬたうつ」の「ぬた」は沼田の意味で山中にいる猪は体を冷やしたり、あるいはアブや蚊に刺されないために沼田にきて泥浴びをする。それを「ぬたうつ」といい、それを待ちかまえて捕らえる猟法をヌタマチといった。猪のヌタウツ転じてノタウツになり、人間にも用いるようになったという。
ちなみに「・・膝栗毛」にある「おつぼ」は女性の名で、面白いからついでに紹介しますが、彼女はのた打ちまわり挙句死んでしまう。おつぼの親が駆けつけて棺桶のふたを開けて覗いて驚いた。「これは娘じゃない、首がなくて胸毛まで生えている!」 「そんなことはないのだが…、しもうた!あわてて逆さまにしてしまった」 
これは昔の棺桶の形態がわかってないと笑うことができない。
 
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岡崎市史跡探訪

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先週の日曜日(13日)に歴史好きの仲間と、岡崎の三河一向一揆関連の寺を巡りました。
本證寺(安城市野寺町)、上宮寺(岡崎市上佐々木町)、勝鬘寺(岡崎市針崎町)は、三河における本願寺教団の拠点で、三河三ヶ寺と呼称され、松平広忠(家康の父)の代に守護不入の特権を与えられていた。一揆の発端は諸説あるが、本證寺に逃げた無法坊主を捕縛したためとも、上宮寺から兵糧とする穀物を奪ったとも伝えられている。
イメージ 1本證寺は昨年訪れたので略しますが、最初に訪れた上宮寺(左の写真)は、コンクリート製の近代的な建物になっていました。境内にいらっしゃった檀家の方に話を伺うと、昭和63年に焚き火が本堂に燃え移ったとのこと。
 
次の妙源寺岡崎市大和町)は、同じ真宗ながら一揆方ではなく、家康側に味方し、上宮寺攻めの拠点になったと伝えられています。妙源寺内にある柳堂は、(下の写真) 国指定重要文化財に指定されています。妙源寺の墓所には、松平家の家臣だった安藤家・本多家・高木家などの立派なお墓がありましたが、藪蚊に5、6ヶ所刺されて閉口した。
 
イメージ 2次に遠からぬところにある鳥居氏発祥地(岡崎市渡町)へ行く。(下の写真) 居城とした渡城城址にわずかに土塁跡が残っている。そこは矢作川堤のすぐ横で、昔の堤防は今のように高くはなかったと思われる。当地は川幅が広く浅かったのでしょう、戦国時代(橋が架けられてなかった)、矢作川をここで渡河した岡崎勢は近くの渡八幡宮で軍勢を整えて西に向かったという。
イメージ 3岡崎が今川氏勢力下にあった家康の人質時代に、家老,の鳥居忠吉が今川方の城代の目をかすめて、主君が帰城する日のために兵器や兵糧米をたくわえていた逸話は有名です。また、関ヶ原の闘いの直前に伏見城を守って討死にした鳥居元忠も、家康の忠臣として名を残しています。
 
以上が矢作川西岸で、これより矢作川を渡って、勝鬘寺(しょうまんじ・左下の写真)へ向かう。勝鬘寺は、台地上にあり、周りに堀が設けられていて、防御性が高い構造になっていたと思われる。(今、堀はない) 墓所には一揆で討ち死にした渡辺高綱の墓があった。
三河における一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、家康の三大危機とされる。犬のように忠実といわれた三河家臣団の半数が門徒方にまわり、戦いに難渋した。家康23歳の時であった。家康は本願寺教団に厳格な処分を下す一方、帰参した家臣には寛大な処置で臨む事で家中の結束を高める事に成功した。
 
次に小豆坂古戦場。(右下の写真)その碑は、交通量の多い幹線道路脇にあり、車を止める場所を探すに難渋した。小豆坂では1542年と48年に二度にわたって、今川・松平連合軍と織田信秀が戦っています。家康の父・広忠の時代です。家康もまた一揆勢と小豆坂で戦っています。
 
イメージ 4
 
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次に本性寺(岡崎市美合町)。この寺も一揆方で、土呂(今の福岡町)に広大な寺域と伽藍を誇ったが、兵火で焼失した。その跡に石川数正が土呂城を築いた。今の本性寺は美合町に移転した。再興に尽力してこの寺で亡くなった家康の叔母(於大の姉) 芳春院妙西尼の立派な墓があった。(左の写真)本堂では多くの檀家衆が、坊様の説法に耳を傾けていたので我々は声を落とした。
 
西大平陣屋跡(岡崎市大平町)を訪れる。(下の写真) 「大岡裁き」で名高い大岡越前守の陣屋が置かれたところです。陣屋跡は公園として整備され、復元された門及び土塀が残る。
歴代の町奉行で大名まで出世したのは大岡越前守のみですね。もっとも彼は岡崎の領地には来たことはなかったという。 越前守を慕い、誇りに思う領民は、(講釈で有名になった) 明治になって、子孫の大岡氏の東京から移住を願い、大岡家別邸として復活した。
 
イメージ 6
その後に伊賀八幡宮岡崎市伊賀町)と、最後に岡崎城内にある三河武士の館を訪れた。すでに夕暮れが迫り、残念ながら天守閣に登る時間がなくなり帰路についた。
 
 
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言葉の由来・その2です

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言葉の由来・その2
 
やばい  「危ない」「悪事がみつかりそう」「身の危険が迫っている」など不都合な状況を意味する形容詞や感嘆詞として、江戸時代から盗人やてき屋の間で使われた隠語。「夜這い」からとも「あやぶい」から転じたともいわれる。
10代の9割が「やばい」をすばらしい、良い、おいしい、かっこいいといった良い意味で使うということが、文化庁による今年の世論調査で明らかになった(朝日新聞9月18日)が、肯定的な使い方に違和感をもつ年配者は、私だけではあるまい。
 
べらぼう  「べらぼうめ」「べらんめえ」は、江戸ッ子の代表的なののしり言葉。
『嬉遊笑覧』は、「竹を削って穀を押しつぶす これぞまことのそくい箆棒 卜葉狂歌集」という狂歌を引用し、穀つぶしの意味で箆棒と言ったという。
店に美しいかみさんが猫を抱いている。
「なんと見やれ、とんだ美しい猫だなあ」
「うん、あの猫を抱きたいな」
猫、聞いて「ニャアンウウ」
女「べらぼうめ、うぬがこっちゃねえ」   (安永四年『新口花笑顔』)
 きりょう自慢のかみさんのプライドはすごい。
 
姥桜(うばざくら)  老いても美しさや艶っぽさを失わない女性を指します。姥桜というは本来はヒガンザクラのこと。美しい桜だから褒め言葉なのかもと思いますが違います。江戸っ子の洒落から生まれた。姥桜は、その桜の花が散るまで枝に葉をつけない、という特徴があります。「葉がない」ことに「歯がない」にかけたもの。美しいなあ、昔はさぞや…と目を見張る年配の婦人が、たまにいらっしゃいますね。
 
合点  合点(がってん・がてんとも)がいくとは、物事の事情がわかる、納得できるの意味で、元来、和歌や俳諧の佳作に点を付けることだったという。
「粗忽長屋」という、究極のナンセンス落語があります。
兄貴分の八五郎が、あわてて熊の長屋に駆け込む。「てぇへんだ、おめえが行き倒れになっている」 二人は現場に駆け付ける。熊は死体を抱き起して言う。
 「トホホ、これが俺か。なんてまあ浅ましい姿に……こうと知ったらもっとうめえものを食っときゃよかった。でも兄ィ、合点がゆかぬ」
 「何が」
 「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう」
 
同じ和歌や俳諧から出た言葉に「けりをつける」もある。「磯千鳥足をぬらして遊びけり」(蕪村)というように、助動詞「けり」で終わる句が多いことから、終りにする、結着をつける意味で使われるようになったという。
 
左前・左団扇(うちわ)・左利き  
着物を着る機会は減り、たまに夏に浴衣を着るだけという人が「左前」に着ているのを見かけることがあります。襟は左が出ているが、右側を先に合わせるので「右前」というのが正しい。要するに右手が懐に入りやすいように着る。左前は死人が着る。食い違って逆になり、運が悪くなって経済的苦境におちいることを左前という。
「左団扇」は右手で強くあおがずに、左手でゆったりと団扇を使うように、生活の苦労なしに安楽に暮らすことをいう。「左前 左団扇と大違い」という川柳がありますが、老後は多くの蓄えで左団扇といきたいが、そんなわけにまいりませんな。
酒飲みの人を「左利き」と呼ぶ。これは、石工職人(金鉱夫ともいわれる)は左手にノミを持つため、「のみを使う手」=「呑み手」という洒落からです。左党とも呼ばれるようになった。
 
鳥瞰図ちょうかんず)鳥の眼から見たらこんなふうに見えるだろうという建物を立体化して描いた地図のことですね。中国からの輸入熟語と思いきや、幕末もしくは明治初めの英語からの直訳。「bird’s eye view」。直訳された名詞はけっこうありますね。
赤帽red cap」や脚光foot lights」もそうです。
 第六感「sixth sense」 五感以外の特殊な感覚で、理屈では説明できない勘とかインスピレーションのこと。『シックス・センス』というブルース・ウィリス主演の映画がありました。
 白書「white paper」 政府の発表する報告書のことですね。表紙が白紙だったことから。
 青写真「blue print」 今はないであろうが、地が青で線が白く、図面の複写でした。「計画中」という意味で使うのも日・英共通という。
 
 
 余計なことながらお知らせ」イメージ 1
 
 半田大衆演芸くらぶ結成10周年を記念しまして「演芸まつり」を開催します。私も1部に出演いたします。知多半島にお住まいの方、よろしかったらお出かけください。

 日時:927日 (日)
  第1部 午前10時~
  第2部 午後130分~
 場所:半田市 アイプラザ半田 講堂(駐車場のスペースはたっぷりあります)
 入場:無料
 
 
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「七十五日」

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  「七十五日」
 私の持ちネタのひとつ『相撲場風景』に、小便を入れたとっくりの中身を、「ずいぶん泡立って、色も付いているから、こりゃお燗したビールだな」と思い、酔っ払いが飲もうとする場面がある。
 「飲んだこたァねえが、きっと、このオカンしたビールってヤツァ、今流行(はや)ってるんだろうな、初物は七十五日生きのびる、てェからな、今からグイッと・・」 というセリフが出てくる。
この初物は、初めて味わう物ということだが、ふつう旬の食べ物をさす。江戸っ子は競って初物を求めた。その年初めて収穫された初物には、他の食べ物にはない生気がみなぎっていて、それを食べれば、新たな生命力を得ることができると考えられていたためです。一時は公儀が、魚・貝類・鳥・野菜や果実などの売り出し日を決定し、初物を求める風潮を制限したほどだそうです。
 
そういえば「人の噂も七十五日」であり、どうでもいいようなことですが、「七十五日」の根拠を探ってみた。

 14世紀の前半に書かれた『源平盛衰記』の中に「人の上は百日こそ申すなれ」と書かれており、この時代には人の身に起こった出来事など百日あれば忘れられてしまうと言う諸行無常を言われていた。
江戸時代、19世紀の1830年に書かれた『人情本・春色辰巳園』の中には「人の噂も七十五日、過ぎたむかしは兎も角も、今じゃあ実の兄弟どうぜん」と言う記述が出てくる。さらに1886年作の歌舞伎『盲長屋梅加賀鳶』の五幕には「たとへ世間でとやかうとおまえの事を言はうとも、人の噂も七十五日、僅か一月か二月だ」と言うセリフがある     (『知泉WⅰKⅰ』より)

 75日は、江戸時代に定着したようだが、ひとつの説として、野菜や米などの種をまいて収穫するまで約75日かかるという事で、ひとつの区切りとして75日になったといわれています。
 一説に、24季節からであろうといわれています。これは中国から伝わったのですが、一年を24等分した。春夏秋冬などという大ざっぱな分け方では、種付けから収穫の細かな農作業ができないのです。例えば春は「立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、八十八夜」の6節です。1節季はおよそ15日。5節季たてばまったく違う季節になるといわれたから、75日。
 また中国の陰陽道の影響で、七や五はめでたい数字とされて(七五三などもその関係)、その噂はそのめでたい七や五がつく日には消えているだろうといった説もあります。
 隣の韓国では「人の噂は90日」と少し長くなっているが、季節が変わるという意味ではちょうど3ヶ月なので相応しいともいえる。ちなみに日中辞典で調べてみたら「謡言難過月、過月無人傳」とありました。人の噂もせいぜいひと月まで、ひと月過ぎると誰も話題にしないといった意味です。
英語のことわざには「世間の噂もたった7日」といったものがあり、ずいぶん短い。これは聖書での「7日間」といったくぎりが元になっているのではないかと思われます。現代の諸事件も、一週間も報道が続けば、よほどの大事件で、次から次と起こる事件も記憶の隅に追いやられます。
 
七十五にまつわる事柄をあつめてみました。
中国地方のことわざに、「七十五日は金の手洗い」といものがある。嫁や養子に行っても、75日は大切に扱われるということだそうです。
長野県の諏訪大社で行われる神事のときには、本殿に75の樽と75頭の牡鹿の頭など、75個揃えたものを捧げるという風習があるそうです。
自衛隊の隊列行進で、男性の歩幅は75cmと決まっているのだそうです。
警察庁に一旦保存された指紋が破棄処分されるのは、その人が満75歳になったときだそうです。
仕事率の単位に「馬力」がある。1馬力とは、75kgm/s。つまり、質量75kgの物体を1秒間に1m動かすことができるってこと。
JRA日本中央競馬界では、1レースの売上げ金の75%が配当に還元されるという。
 
 「七十五日」を記していて、太刀山のことを思い浮かべましたので、蛇足ながら「四十五日」について
太刀山(明治後期から大正にかけて横綱)の相撲は突き押しで、その威力はすさまじく、二突き(二月)とは耐えられないとの意から一突き半(1月半)45日で「四十五日の鉄砲」と恐れられました。
1940年510日からはじまったナチスドイツの低地諸国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)およびフランスへの電撃侵攻作戦では絶大な戦果をもたらした。621日にフランス(ヴィシー政権)は休戦を申し出、フランスはドイツの占領下となった。まさに「一突き半」の横綱相撲であった。
 
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スーパーマン

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イメージ 1スーパーマンは、アメリカで1938年にコミック誌から生まれたスーパーヒーローです。
1956,7年頃からTVで放映された『スーパーマン』には夢中になりました。
「空を見ろ!鳥だ!飛行機だ!いや、スーパーマンだ!」というのが、番組の冒頭に流れました。ガキの頃は風呂敷を背中になびかせて走っていました。幾度も地を蹴って飛行を試みましたが、果たせませんでした。保育園で、ブランコに立って勢いをつけて飛んだ挙句、骨折をしてしまいました。知らせに驚いて、飛んで来たのは母親でした。
 最初に映画化されたのは、1978年のこと。初代の主演:クリストファー・リーヴは一躍スターになり、その後81年に「スーパーマン2」、83年に「スーパーマン3」、87年に「スーパーマン4」が公開され、彼自身がスーパーマンの代名詞になりました。もちろん映画館に足を運びました。
1995年、リーヴ氏はバージニア州シャーロッツヴィルで乗馬中に落馬して、脊髄損傷を起こし首から下が麻痺してしまいました。彼は、「自分の足でまた歩きたい。それを叶えて、体が麻痺した多くの人々にとって夢のある存在になりたい」と厳しい治療やリハビリテーションに専念する。数年後には人指し指を動かすことができるようになり、体の一部に感覚を取り戻せるまでに到ったのです。そして、献身な介護をする妻と共に「「クリストファー・アンド・ディナ・リーヴ麻痺資源センター」をニュージャージー州ショート・ヒルに開設し、長期の障害を持つ人々のために独立して生きる道を支援する活動や、麻痺に苦しむ25万人のアメリカ人を救う為の科学支援をしました。
1999年には、テレビ番組を製作し、車椅子に乗った主人公を演じ、2003年の連続テレビ番組「ヤング・スーパーマン」では、若き主人公に深く影響を与える博士役で出演。スーパーマン世代、批評家、視聴者から、「すばらしく、しかもふさわしい役」として温かく称えられました。
脊髄損傷のみならず、難病に苦しむ世界中の人々を励まし続けたリーヴ氏。
2004年1010日、自宅で心不全を起こし52歳の若さでこの世を去りました。彼こそ、「実在した本物のスーパーマン」といえるのではないでしょうか。
                          (参考 FM・FUKUOKA)
 
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驚きの画像

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 「驚きの画像」というテーマで気に入った画像を集めてみました。
 
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 ↑ 指って5本ずつしかないのに、ビアジョッキ6本ずつ両手で12本運ぶ姿は見事です。 この気合に免じて愛想の悪さはお許しください。
 
 
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 デカッ。真ん中あたりなぞ、猫の体より大きい。 しかしこの撮影写真のみなさんはにこやかですが、一番右の人だけ笑顔じゃないのは、きっと、「オレが頭を持つのかよ!」と、思ってるからにちがいありません。
 
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 これはナマズなのですが、いやおうなくデカい! 重さも半端じゃなさそうですが、魚をこんな風に抱きかかえたら、しばらく魚臭そう。
 
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 場所が不明ですが、おそらく中国と思います。強風が吹いたら大変なことになりそう。
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 猫さんがウルトラマン並の背筋で飛び出しています。直後の猫さんの悲劇を思うと
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 バイクレースでこの高さのタイヤバリアって、計算上こうなるとは考えなかったのでしょうか。それにしても人間砲弾のように飛んでいます。柔道か相撲の経験者なら受身ができますが、それでも怪我するでしょうね。
 
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 いやはや、自転車のサドルのためになんとも卑猥な妄想する画像になってしまいました。
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 何が理由でわざわざこういうことをするのか、わかりません。どんな感覚のサービス精神なのでしょうか。 全くの謎です。
 
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 偶然にもシルエットが恋人同士のようですが、撮影者の演出を感じます。
 
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 すごい高さまで運ばれています。一人が落下中です。こんな事って本当にあるんでしょうか。鯨がデカ過ぎますから合成写真でしょうか。これだけインパクトがあれば世界中に配信されたでしょうが、今まで記憶にありません。
  
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ローザ・パークス

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 ←Rosa Parks  1955年撮影
背後に立っているのはマーティン・ルーサー・キング)
 
 1955年121日18時頃、アメリカ・アラバマ州モンゴメリーで、百貨店の仕事を終え、帰宅するためにバスに乗った、ひとりの黒人女性がいました。ローザ・パークスさん、当時42歳。
 当時のアメリカ南部は、バスやレストランなど公共の場所で、人種分離制度が実施されていました。バスの中では、白人席と黒人席、中間の席は白人がいない時は黒人も座っていいことになっていました。ローザは、黒人席が一杯だったので、中間席に座りました。そのうち、白人が乗ってきはじめ、運転手が中間席に座っている黒人に立つように命じました。座っていた黒人4名中3名は席を空けたが、彼女は立たなかった。運転手がローザのところにやって来て「なぜ立たないのか」と詰問し、席を譲るよう求めたが、ローザは「立つ必要は感じません」と答えて起立を拒否した。そこで、運転手が警察に通報し、彼女は市条例違反で逮捕された。ローザは「どうして私が連行されるのか」と質問したが、警官は「知るもんか。でも法は法だからな。お前は逮捕されたんだ」と返答した。警察署での逮捕手続きが終わると一旦は市の拘置所に入れられたが、即日保釈され、やがてモンゴメリー市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告される。
 ローザ逮捕の報せが伝わると、モンゴメリーのバプテスト教会に着任したばかりで当時26歳だったマーティン・ルーサー・キング牧師らが中心となって黒人差別を撤廃する抗議運動を始め、モンゴメリーのすべての黒人にバス・ボイコット運動を呼びかけた。(以前にも黒人が同様に逮捕されていたが素行の悪い者が多く、運動としては盛り上がらなかった) 黒人たちは、バスを利用せずに歩いたり、黒人の車に同乗するなどしてバス・ボイコット運動を381日間展開しました。利用者の75%以上を占めていた黒人たちがバスを利用せず、黒人の車に同乗したりどこへ行くにも歩いたりしたため、バス路線を運営するモンゴメリー市は経済的に大きな打撃を被った。
 そして最高裁が、黒人差別は憲法違反だという判断を下し、ローザは「アメリカの公民権運動の母」と言われるようになりました。ローザは、その後も黒人差別をなくす運動に力を注ぎ、1966年には、最も偉大なアメリカ市民に贈られる「大統領自由勲章」を受けました。
 デトロイトの自宅でローザは92歳の生涯を閉じました。彼女の追悼式に出席した人の中には、当時の国務長官・黒人のライス長官がいました。そして、このように追悼の言葉を述べたそうです。「私はバス事件の前の年にアラバマ州で生まれました。パークスさんがいなければ、今日、国務長官として、この場に立てなかったかもしれません」と・・・。
 勇気と希望を持ち、人間としての誇りを大事にした、ローザ・パークスさん。
 ひとりの人間の勇気が、アメリカという国家までも変えた話です。
               (参考 FM・FUKUOKA AND wikipedia)
 
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